第29話 ヴァルキュリア

「この角を曲がれば玉座の間だ。総員、武器の用意はいいな?」

「はい!」

「フレンジーヌは肖像画で見せた通り、見た目は嫋やかで美しい女だ。だが、油断するな____」


 イザナルがそこで言葉を切ってショウエルを見ると、ショウエルは「わかっています。なんとおっしゃられてもかまいません」と悲しい目でうなずいた。


「外見には惑わされず見つけたら即時抹殺!命乞いの言葉を聞くな。あれは善も悪も知らない闇を『フレンジーヌ』という女の皮で覆った怪物だ!」

「はい!」

 

 ザッと武器を抱え直す音を聞きながらショウエルは目を伏せる。

 彼女にとって、それでも母は母だった。

 床を流れる血潮。無数の死体。

 それは罪だとわかっていても……道徳と感情は別だ。

 むしろ、罪びとへの憎しみと、母への愛と、その二つがともに存在する以上、ショウエルは心などなくなってしまえばいいと思っていた。


 そのとき、ショウエルの文様が淡く光を帯びた。少し間を置いて、イザナルのものも。


「この先には誰かがいる。文様がはじき出したからにはこの国に仇なすものだな。だがこの光り方ではたいした人数ではない……二人……いや、一人か?」

「どうなさいますか」

「数では俺たちの圧勝だ。練度もそうだと願いたい。このまま進軍せよ。降伏せざれば殺せ」


 そろそろと部隊が動いていく。

 そして、角を曲がり、玉座の間の前、筒先の長い銃を支え持つ、神殿の女神を守るような姿の男に、ショウエルは小さく声を上げた。


「ナンセ……!」

「お久しぶりです、お嬢様」


 ナンセはにこりと笑った。戦場には不釣り合いな笑顔だった。そしてもっと不釣り合いなことに、その銃口はショウエルに向けられていた。


「ずいぶん遠くまで旅をされたようですね。____フレンジーヌ様はすべてを許すとおっしゃっています。さあ、こちらへ」


「なぁに言ってんだ、優男。蜂の巣になるのはお前の方だぜ?」

 傭兵たちから笑い声があがる。

 たった一人だけで大勢の傭兵たちの前に立ち『許す』などという男がひどく滑稽に見えたのだ。

 けれど。


 ゆらりとショウエルの体がかしぐ。


 そして、エルリックが止める間のないまま、戦列の最前線へと走った。


「本当に?本当にお母様は許してくださるの?」

「ええ。お嬢様の失踪を大事にならないように奔走されたのもフレンジーヌ様です。今ならまだ間に合いますよ。こちら側の世界へとお帰りください。大貴族の子女として、王妃として、栄華を極めればよいではありませんか」


 傭兵たちがざわつく。中には聞こえよがしに舌打ちをしたり「やっぱりお貴族様はお貴族様かよ」と口に出す者もいた。


「もし帰らないと言えば?」

「大変申し訳ありませんが」


 ナンセが照準を合わせる。


「殺せとのご命令です」

「それがお母様の本心なのね」

「いえ、苦肉の策ですよ。それだけ、フレンジーヌ様は大事なお嬢様を手放したくないのです。本来ならこんな脅しもしたくないのですが……」

「そう。わかったわ」


 ショウエルの背後がまたざわついた。それは失望のざわめきだった。


 貴族だが自分たちに近い娘、弱いなりに戦うと宣言した娘。

 信頼しかけた矢先だったというのに、それでも結局は貴族の恩典のもとへと帰るのかと。


 対の文様の片方を奪われてなるものかと副官が飛び出しそうになり、それをイザナルが抑える。


「しかし、隊長……!」

「姫の騎士を見ろ。まったく焦っていない。ということは……姫の裏切りの心配はないということだ。ただもしも本当に奴が撃つなら……そのときは俺たちで姫の体を引き倒せ。弾が当たらないように。

 あの男が誰かはよくわからないが、これは姫の戦いだ。俺たちは姫を守ること以外は手を出すべきじゃない」

 

 イザナルにそう言われた副官は「ですが……」と眉間に皺を寄せる。

 副官からすれば、それは男の理屈だった。女であるショウエルにはそんなことは関係ないと思っていた。

 そして、ショウエルが男のような行動をとることもできないだろうとも。


  けれど、それは裏切られた。___最良の意味で。


「これがわたしの答えよ、ナンセ」


 ショウエルもまた、銃を構える。それはひたりとナンセの心臓を狙っていた。


「残念です。お嬢様。お嬢様だけは手にかけたくなかった」

「わたしもあなたを手にかけたくはなかった」

「愚かな道を選ばれましたね。せめて傭兵どもの中にいれば、やつらが盾になったでしょうに」

「いいの。あなたを撃つのはわたしでなければ。お母様の娘の」

「しかしその銃では射程が足りない。それに精緻な射撃もできない。お嬢様がそれを補うほどの技術をお持ちだとも思えない。これではあなたは人質のようなものです」

「疑うなら撃ちなさい。___どうせお母様からも、わたしはなんとしてでも生きて捕えろと命令をいただいているのでしょう?殺せなどいうのはわたしを怖がらせるための嘘だわ。死んだわたしに価値はないもの。ならば……どちらにしても人質になるのに変わりはないわ」

「……もう一度、お願い申し上げます。どうぞ、こちらへ。そうすれば、お嬢様にはこれまでと変わらぬくらしが待っています」


「いいえ」

 

きっぱりとショウエルが答えた。


「わたしの望む生き方は今の生き方だわ。自分を生きられる生き方よ」

「交渉決裂ですね」

「ええ」

「本当に残念です。私はお嬢様のことが本当に大切でした……」

「わたしもよ、ナンセ。血は繋がらないけれど家族だと思っていたわ、エルリックのように」

「最高のお言葉をありがとうございます。これほど嬉しい言葉はないでしょう。でも……あなたを狙う手は逸れません」

「いいのよ。あなたはお母様が大事なんですもの。自分の命よりも。いまわたしたちがこの国の為に戦っているように」

「急に大人になられましたね、お嬢様」

「皆のおかげよ。お母様の名前に隠れて、影に隠れて、そんな生き方よりはずっといいわ」


 笑ったままのショウエルが引き金に指をかける。

 だが、それより一瞬早く、ナンセの指が引き金を引いていた。

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