よっつ

 ふいに耳元で吹き荒んでいた風音が止み、ホトトギスの声が聞こえた。どうやら山姥やまんばが足を止めたようだ。私は固く閉じていた目を薄く開けた。


 ――きょっきょ。きょっきょきょ。きょきょっ。

 木洩れ日の森でホトトギスが鳴いている。いつの間に洞窟を抜けたのだろう。

「ここがゴーヤ峠だよ」片目の山姥がニタリと笑った。


 無造作に放りだされ、頭から地面に転がった私は、目の前の景色に目を瞠った。

 こんもりと森に縁取られた絵のような山里がそこにあった。青々とした田んぼの真ん中をさらさらと小川が流れていて、その畔に水車が回っている。藁葺き屋根のひなびた屋敷がちらほらと見えた。

 私はそのうちの一軒へ連れていかれた。


 その家にどこといって変わったところはなかったが、ここが山姥の棲まいかと思うと生きた心地がしなかった。がたつく引き戸を開けて暗い土間に入ると、屋内のひんやりした空気に汗が自ずと引いた。山姥は私を上がりがまちに坐らせると、冷えた番茶をすすめ、自分は囲炉裏端に坐って餅を焼きはじめた。


 これは毒に違いない。それとも俺を太らせてから食うつもりか。

 異界で飲み食いして、ろくなことは無いのは古今東西の定説である。私はなにひとつ口にするまいと心に誓った。ところが山姥のやつが、うちのひいばあちゃんがひ孫におやつを出したときと同じような目つきで、じいっと私から目を逸らさないのだ。

 ひょっとして、食べなければ喰われるのだろうか。そんならどちらに転んでも喰われるではないか。なんて狡猾な罠だ。追いつめられた私は、目をつむって餅を頬張った。そしたら餅が喉につかえて死にかけた。そして山姥がまたもや番茶をすすめる。誰か助けてくれと思った。


「さて、腹ごしらえが済んだら、畑だよ」

 山姥が立ち上がった。畑で何が起きるのか想像もつかないが、すべては破滅へと繋がっていることは確実だ。そうと気づいていながら恐過ぎて逆らえないので、私は言われるがままに山姥の後からついていった。


 家の裏手に回ると細長い畑があった。ナスやキュウリやサヤエンドウなどの夏野菜の畝の向こうに、竹で編んだ棚が見える。盛大に蔓を這わせ青々と茂る葉影には、細長いゴーヤがつやつやと揺れていた。

 山姥は鉄のハサミと、カピバラ一頭くらい入りそうな巨大な籠を私に手渡した。

「この籠一杯分、ゴーヤをもいでおくれ。熟れたやつを選ぶんだよ。それから実を切り落とす前にゴーヤの尻尾を切るんだよ。尻尾が先だよ。忘れるんじゃないよ」


 そのときは逃げることで頭が一杯だった私は、正直、話をよく聞いていなかった。

 大事な懐中電灯を入れたリュックを、山姥の家に置いてきてしまったのは失敗だった。あれがないと真っ暗な洞窟が抜けられない。私は素速く策を練った。

 ゴーヤを収穫するくらいなら簡単だ。いくつか取ったら「御不浄ごふじょう、お借りしまーす」とか言って山姥の家に戻り、リュックを背負って逃げる。よし。これ以上の名案はあるまい。


 私は鉄のハサミを握り、熟れたゴーヤの実をつかんだ。

 夏の日差しを浴びた緑色の実は生き物のように温かい。がくのすこし上の茎をハサミでパチンと切った瞬間、てのひらに妙な感触があった。ゴーヤがプルプルンと身動きしたような気がしたのだ。


 そのとき。ゴーヤのつぶらな瞳と目があった。

 握ったゴーヤを改めてよく見ると、そのゴーヤには尻尾があった。それと短い前足と後足も生えている。つぶつぶと紛らわしいが小さな耳もあった。


「チャンプるー」 ゴーヤが、細い声で鳴いた。


「ええっー?」 取り落とした。


 ゴーヤは身軽に地面に飛び降りると、短い尻尾をチョロンと振って、あっという間に逃げ去った。ぽかんと口を開けた私を畑に残して。


 ――いまの可愛いのはなんだったんだ。

 私は首を斜めに傾げたまま、別のゴーヤを手に取った。茎にハサミを入れる。

 チョキン。

 プルプルンと震えたゴーヤはまたもや「チャンプるー」と鳴いて逃げた。


 この畑はヘンだ。ここに至って、やっと私は気づいた。

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