三 九年母山へようこその巻

 クネンボみかんの木は、おばあちゃんがいつも洗濯をする小川を、川上へさかのぼった山の奧に生えています。


 白いすすきに縁取られた河原を歩いてゆくと、黒い岩の重なる崖で、小川は小さな滝になりました。ここからはけわしい杣道そまみちをたどるのですが、太郎は迷うこともなく、よいしょ、よいしょと元気に登ってゆきました。


 森の小径こみちは、大木をけてはくねり、大岩をけては曲がります。木洩れ日のふる胸突き坂を登りきると、見晴台みはらしだいのように張り出した岩棚いわだなの上につきました。


「うわあ! 高いなあ!」


 風がひゅうと吹いて、おでこの汗を冷やしました。

 耳を澄ますと、深々と茂った紅葉の向こうから、清水のせせらぎが聞こえます。

 クネンボみかんの木までは、まだ遠そうです。太郎のおなかが、クウと鳴りました。


 太郎は地べたにすとんと腰をおろし、背中の包みをほどきました。

 竹の皮の包みをひらくと、一口で食べられる大きさのきびだんごが、ぎっしりと並んでいました。


「やったあ! いただきまーす!」


 太郎の指が、はしっこのひとつをまもうとした、そのときでした。

 背中の茂みが、ガサリと鳴りました。


「あれっ?」


 太郎が振り向くと、木下闇こしたやみから恐ろしげな金色の目が、らんらんと光っています。


「うわあ。助けてえ!」


 太郎はきびだんごの包みを抱いて立ちすくみました。


 茂みから、のそりと姿を現したのは、太郎の十倍はありそうな、大きな四つ足のけものでした。赤松色の毛に黒いまだらがあり、炎のようなあかいたてがみを逆立てています。きだした牙は、太郎をたやすく八つ裂きにできそうでした。


 これが、おばあちゃんの言っていたオオカミに違いありません。



 オオカミは太郎の手元を見つめて、たらりとよだれを流しました。


 ――この子の持ってる丸いやつ。なんて美味しそうなんだろう。


 でも。「それ、ちょうだい」 なんて、恥ずかしくて言えません。どうしよう。

 オオカミが、もじもじと躊躇ためらっているうちに、クルリと向きを変えた太郎は森の奥へと駆け戻りました。


「おいおい、ぼうや。どうしたの?」


 オオカミはあわてて太郎を追いかけながら、地声の低い声でうなりました。


「だって。オオカミを見たら逃げろって、おばあちゃんが言ってたもの!」


 きびだんごを抱きしめて走りながら、太郎は泣き声で答えました。


 ――逃げないで。おねがい! だめなら、一個、置いてって!


 オオカミは、心の中で叫びました。

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