ふたつ

 こうして迎えた夏休みの初日、私は「遊びに行く」とだけ言い置いて家を出た。


 あれは子ども特有の鋭い勘であった。

 ゴーヤ峠に行くと言えば、おそらく親に止められそうな予感がしたのだ。いつもの遊び仲間を誘っておいたのに、なぜか誰もついて来なかった。麻綿原まめんばらのヤツが余計なことを言ったせいに違いない。あの野郎。ただでは済まさぬと思いつつ、私はただ一人でゴーヤ峠に向かったのだった。


 苦瓜噛潰岳にがうりかみつぶしだけふもとの村までは地域を巡回するバスで簡単に行くことができた。しかしバス停を降りて、山への登り口を訊こうとすると異変が起きた。「ゴーヤ峠」と口にしただけで、辺りの大人も子どもも蜘蛛の子を散らすようにして逃げ散るのだ。


 そんな混乱のさなかで足がもつれて逃げ遅れたお年寄りがいた。

「大丈夫ですか」私はすかさず抱き起こす。しかし。

「この村で、その名を口にしてはならぬ」と言い残し、ばあさんは白目を剥いて、死んだふりをした。

 あそこで止めておけばよかった。莉乃や、空気は読むものだぞ。


 若かった私は、勇気と無謀の区別がつかなかった。

「人の足跡を辿ることを冒険とは云わない。地図が無いなら俺が描く」……などとうそぶく自分に酔いしれ、瞳を潤ませて幻のゴーヤ峠を目指したのだ。ああ、恥ずかしい。


 よく晴れた暑い日だったが、苦瓜噛潰岳の折れた剣のような山頂だけが雲に取り巻かれていた。森に入ると濃厚な草いきれに包まれた。あちこちで巨木が思うままに枝を広げている。絡まりあったやぶを難儀していでゆくと、ふいに森が途切れ風が吹き抜ける。

 私は狭い崖の縁に立っていた。断崖の下は万緑の海。


 そこに一基の石塔が佇んでいた。


 長年雨風に晒されてきたらしく、刻まれた文字はほとんど消えかけていたが、微かな凹みを指先でなぞると「急」「畑」「山」の三つの文字だけが読み取れた。このとき、なにか不吉な感じがしたものだ。


 石塔の傍らから頭上を仰ぎ見たとき、私は仰天した。

 巨大な平たい岩が森に大きな影を落としているではないか。バスから見た不思議な岩に間違いはなかった。


 そして、石塔の先からは、細い径が崖の岩肌を穿うがつようにして山頂へと続いていた。

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