4 篤い保障

「日常の危機保険?」


 パンフレットは 妙に可愛らしいピンクとブルーのパステルカラーだった。


「こちらが、お勧めですよ」


「え? こむらがえり保険?」


「いきなり足がつった場合、御連絡を頂き次第、直ちに駆けつけます!」


「いや……別に駆けつけてくれなくても」


「では、こちらはいかがです?」


「え? しゃっくり保険?」


「しゃっくりがエンドレスに陥った場合、御連絡を頂き次第、直ちに駆けつけます!」


「だから、駆けつけてくれなくていいってば」


「ならば、こちらを!」


かなしばり保険? 夜中に体が動かなくなるやつ?」


「いきなり金縛りに陥った場合、御連絡を頂き次第、直ちに駆けつけます!」


「いや、連絡できないだろう。金縛りなら」


「あ、そうか!」


 丸く目を見張った信太しのだの顔が可笑しくて吹き出すと、信太も一緒になって笑う。お互いの笑いが、また笑いを誘い、俺たちは子どもみたいに笑い転げた。


 ひとしきり笑うと、なんだか息をするのが楽になった。

 いつから俺は、こんなにガチガチに肩が凝っていたんだろう。

 気がつけば、休憩時間が残りわずかだ。


「ごめん。信太さん。俺、そろそろ職場に戻らないと。改めて連絡させてくれよ」


 貰ったパンフレットをかき集めようとする俺の掌に、信太の掌が触れた。

 むかし飼っていた子犬の肉球のような感触がした。


「深山様!」


 信太が真顔で声を改める。


「どうしたの?」


「実はわたくし。本日は、深山様に保障をお渡しにうかがったのです」


「保障ってなに? 俺、保険なんか入ってないよ」


「御契約者様は、深山みやま花子はなこ様。東太郎とうたろう様のおばあさまです」


「おばあちゃん?」


「花子様は突然のお別れで、まことにご愁傷様でございました」


 信太は寂しげに目を伏せた。


「御契約の保険の受取人様に、東太郎様をご指定なさっています」


「そうだったのか……」


 目の奧がじわりと熱くなった。


「それで来てくれたのか。――どんな保険なの?」


「恩返しキツネ保険です」


 俺は、とっさにリアクションできなかった。

 信太が頬笑むと、目尻が優美につり上がり、金茶色の髪の間から、三角の耳がちらりとのぞいた。


「信太さん。まさか君は――」


「しい!」


 信太は、人差し指を唇にあてて片目をつむった。


「わたしは御稲荷山おいなりやまのキツネです。先祖代々、神様のおつかいを務めております」


「御稲荷山って、ばあちゃんがおまいりしてた、裏山の神社?」


「はい。お詣りされるたびに、必ず山盛りの油揚を供えてくださいました」


 信太は深々と頭をさげる。


「――まさか。俺に遺されたものは、一生分の油揚あぶらげ?」


「いえいえ。お受取の内容は、花子様から東太郎様へのおことづけです」


「ばあちゃんのことづけ?」


「はい。花子様は亡くなる前の日にも、お稲荷さんをお詣りされたのです。そのとき、東太郎様へおことづけをなさいました。大きな油揚もふんだんに供えて――。御神木のかえでうろに棲みついていたわたくしは、一言一句漏らさず、この耳で聞きましたので、お稲荷様に代わりまして、東太郎様にお伝えに参上した次第です。ではどうぞ、お受け取りください」


 ケンケンとふたつ、信太は咳をした。


「お稲荷様、今日も達者に歩けました。ありがとうさんでございます」


 頭の中で信太の声が、懐かしいおばあちゃんの声に変換した。


「あたしも九十を過ぎました。この世に未練はありゃしません。ただ心残りは、この頃、ちいとも顔を見せなくなった、孫の東太郎のことでございます。大学も今年で卒業ですし、忙しいんでしょうがね。ただね、あたしがいなくなった後で、あの子が一人寂しく思い悩むようなことがあれば、切ないことでございます」


 ――ごめんね、ばあちゃん。そんなに俺のこと心配してくれてたんだ。


「俺、ばあちゃんにいつでも会えると思ってたんだよ。こんなに早く死んじゃうなんて思わなかった。もっと会いに行けばよかったよ」


「まあ、あたしが生きていたところで、たぶん何の助けにもなりませんがね。でもほれ、小遣いくらいはやれますからねえ」


 ――会いに行けばよかった!!!


「そんなときにはね、お稲荷様。あたしのかわりに東太郎のところに行って、あの子の話を聞いてやってくださいませんか。なんぞ冗談でも言って、あの子を笑わせてやってくださいな。そしたら気持ちもほぐれて、あの子も、よく眠れるだろうから」


 ――ばあちゃん、なんで知ってるんだ。この頃、俺がよく眠れてないことを。


「東太郎にこう言ってやってください。ばあちゃんが東太郎を守ってるから、なにも心配するなと。――御先祖様に守ってもらうのは、恥ずかしいことではないんだよって。東太郎だって、好きな人を守りたいと思うだろう? 大事な人を守ってやれるのは嬉しいことなのよ。お稲荷様もそうお思いでしょう? だからこうして、みんなを守ってくだすっているんでしょう?」


「お稲荷様。いつもいつもお守り下さってありがとうございます。うちの東太郎のことも、どうか守ってやってください。――以上です」


 俺はチサの梢を見上げた。満天の星を思わせる白い花が、どうしようもなく潤んだ。昨日までは、なにかが胸につかえてて、こんなに気持ちよく涙が出なかったのに。


 ありがとう。ばあちゃん。

 いまも守ってくれてるんだね。遠くに行ってしまったわけじゃないんだね。

 ばあちゃんのお陰で、俺はもう大丈夫だよ。

 きっともう一生、大丈夫だよ。


「東太郎さん。これはキツネ特約です」


 金茶色のハグは、かすかに甘い油揚の匂いがした。

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