2 託されたお皿のこと

 そのお皿はヌラヌラと濡れていて、ワカメのような手ざわりがした。


「げええっ! きもちわるい!」


 放りだそうとする北斗の手の上から、おじさんの大きな両手がガッシリと被さって固く包みこんだ。北斗はその手を二度見した。


「ええっ? なに、この手?」


 おじさんの指のまたには、年季のはいった水かきがあった。


「この皿は、八百年、俺の相棒だったんだ」


 しみじみとおじさんが言った。


 八百年と水かき。

 どちらがより重大なキーワードなのか。


「正確には八百三十七年だけどな」


 北斗の手を握りしめたまま、おじさんは鼻水をジャージの肘でぬぐった。


「おじさん、もしかして河童じゃないよね?」


 抑え切れない心の声が表に出てしまった。


「分かるのか? さすがだな、少年!」


 おじさんは、ぐっと北斗に顔を近づけた。

 こころなしか上唇が尖っている。


「この皿に勝手に高値をつけて、血まなこで欲しがる奴も大勢いるが、あんな奴らはお断りだ。この皿は俺の青春そのものなんだ。そんなものいりませんって断るくらい欲のない、君のような人間を俺は待っていたのさ」


「そんなもの、いりません!」


 北斗は真顔で叫んだ。


「いいんだ。遠慮するな。受けとってくれ」


 おじさんがうつむくと床に涙と鼻水が垂れた。


「本当にいらないんだってば!」


 北斗は死にものぐるいで、おじさんの手を振りほどこうとしたが、昔話にでてくる通り、河童の力はものすごく強かった。


「でも、ほら。おじさん。河童なんだから、お皿がなきゃ困るでしょ?」


 この状況から逃れる術を、北斗は必死に探した。

 すると、おじさんの目からまた涙がこぼれた。


「優しいことを言ってくれるなあ、少年。でも、もういいんだ。俺は今日限りで河童を引退するんだから」


「ええっ? 引退? 河童を?」


 おじさんは遠い目をしてうなずいた。


「俺は君ぐらい若い頃に、日本中のすべての川の水源から河口まで泳ぐと、誓いを立てたんだ」


 地図が大好きな北斗には、聞き流せない話題だった。


「日本中の川って、すごい数ですよね?」


 愛読している日本地図の一頁が目に浮かんだ。

 山や川の名を暗記するのも好きだった。


「三万五、六千本あったかな」


「全部、泳いだんですか?」


「ああ」


 河童は慎ましくうつむいた。


「すごいですね!」


 北斗の眼差しが憧れのアスリートを見つめるそれに変わった。


「ありがとう。もう河童として悔いは無い。明日からは自分探しだ」


 河童はほろ苦く笑った。


「待って! 考え直して!」

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