第三話 恩返しキツネ保険
1 あぶない昼下がり
カフェのテラス席の足元に、吹き寄せられた白い花弁は、初夏を忘れないチサの花だった。チサはエゴとも呼ばれる落葉樹だ。梅雨入りの頃、小さな白い五弁の花が一斉に咲く。新緑の梢を仰げば、満天の星のような白い花々が頬笑みかけてくる。
遅すぎる昼食のテーブルでタブレットを開くと、夕方の打ち合わせが夜に延びたとラインが告げた。また残業か。ため息がエクトプラズムになって空に還っていく。
梅雨近し辞表それとも辞世の句
思わず一句詠んだ俺は、読みさしのライトノベルをタップした。
「失礼ですが――」
木漏れ日の揺れるテーブルに人影が落ちた。
「こちらの席、空いてますか?」
若い男の声が問いかける。
空いているもなにも――。こちらに限らず、ランチタイムを大幅に過ぎたカフェには、見渡す限り客がいない。こいつは何を言っているんだろう?
「……いえ。もうすぐ連れが来ますので――」
俺は顔も上げずに、うさん臭い相手から目を背けて冷めた珈琲を啜った。
――ほっといてくれよ。俺はくたばりかかってるんだ。自慢じゃないぞ。
正直、息絶えるまでここから一歩も動きたくない。
新人研修では仏様のように慈悲深かった上司が、連休明けたら別の人になっていた。傭兵部隊のイカレた上官みたいな笑顔で、部下を修羅場に駆り立てる。
さっきも口角は上がってるけど、目は醒めたまま、じっと微笑みかけられた。
「
「ありがとうございます!」
「さっき出してくれた報告書だけど、かなり違ってた。今日中に書き直してね」
「かしこまりました!」
俺のデスクには今日中と付箋のついた書類が、かき氷のように積み上がっていた。
――もうこんな職場、いますぐ辞めたい。
「実は、耳寄りな情報をお持ちしたんです!」
ため息交じりの俺の肩先から、愛想のいい声が降ってくる。
――まだ、いたのか。
この期に及んでキャッチセールスかよ。
いっそキュキュッとこの手で絞め殺したろか。
ついに顔を上げた俺は、瞳孔を開いて相手を睨む。
この瞳から邪悪なオーラを放ち、思いきり敵を威嚇してやった。
「はじめまして」
金茶色の髪をふわりと逆立てた若者が、笑みを含んだ眼差しで俺を見つめていた。
優雅な髪に似合ったチャコールグレーのスーツを身につけ、シャンパンゴールドのアタッシュケーズを提げている。落ち着いた印象だが、同い年くらいかな。
「わたくし、シ、ノ、ダ、と申します」
名刺を差し出されたとたん、俺は立ち上がって内ポケットを探り名刺入れを取り出してしまった。一連の動作に社畜の習性が染みついている。忌まわしいことだ。
「ありがとうございます。
俺の名刺を捧げ持った、シノダと名乗る
和やかな眼差しと目があうと、ふと懐かしい人を思い出してしまった。
同世代のチャラい笑顔が、なんでまた祖母の面影に重なるのだろうか。
会うたびに孫を甘やかすのを楽しみにしていた田舎のばあちゃんだ。
裏山の天辺のお稲荷さんに、毎日欠かさずお詣りするくらい元気だったのに、昨年の春、突然心臓の発作を起こして亡くなってしまった。
「わたくし、保険の代理店を営んでおりまして、主に少額なミニ保険を扱っております。もし宜しければ、御紹介させて頂けませんでしょうか」
信太が軽く会釈する。
「ああ保険ね」
なんだか力の抜けた俺は、改めてテーブルの上の名刺を眺めた。
『 ◇各種保険 承ります◇
宗教法人 稲荷大明神
連絡係 信太(しのだ) 紺(こん)
電話 ○○○○○○○○○
アドレス △△△△.com』
「おい!!! 宗教じゃねえか!」
思わず椅子を蹴った俺の袖を、信太がにこやかに引きとめた。
「おはなしはこれからですよん。深山様」
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