5ー9 神の子と天使の子

「お母さん!」


 寝室に駆け込んできたゴーグルとマスク姿の小柄な少女は、俺を見るなり足を止めて後退あとじさった。


「えっ……?」


 思わず聞き間違えそうになるほど、ミカによく似たアルトの声だ。


「……サク?」


 名前を呼んでみたところ、彼女はさらにびくりとする。


「あ、あの……母は……」


 その視線は、ベッドに力なく横たわるミカへ向けられている。

 どう話をしようか。俺は少し迷ってから、ありのまま説明することにした。


「さっき落ち着いたところだよ。咳き込んで気を失ったから、医療用ナノマシンを投与した」

「え? ナノ……?」

「極小サイズの医療器具だ。一時間ほど前に静脈へ注入した。血液中を巡回し、病魔に侵された部分を修復して、体内に入り込んだ不純物の排出を促してくれる」

「は、はい……」

「塵芥による過敏性肺炎なら、汎用のナノマシンで十分効果があるはずだ。大丈夫、コロニーではよく使われてるものだよ。これで肺が正常な状態に近づけば、きっと自己快復していけるだろう」


 ルリに無理を言って準備してもらったアタッシュケースの中身が、それだったのだ。

 地球に暮らす人々にとって最も致命的なのは、ミカもかつて悩んでいた通り、薬草では治療の難しい疾病だ。

 さすがにヒルコ症の特効薬はなかったが、それ以外の病であれば大抵このナノマシンで対処できる。さっそく役に立って良かった。握ったミカの指先は、温もりを取り戻しつつあった。


「えっと、あの……母は治るってことですか?」

「俺は医療者じゃないからはっきりしたことは言えないが、恐らくは良くなるはずだ。とりあえずは様子見しよう」

「分かりました、ありがとうございます。あの……」

「……サク、だろ?」

「あの……はい」

「ミカから聞いてるかどうか分からないが、俺は君の——」

「……お父さん、ですか?」


 俺は少し驚いた。

 言い当てられたこと以上に、『お父さん』という言葉が意外なほど強烈に胸を打ったのだ。


「あぁ……そうだよ」

「やっぱり。昨日、『追放者』のポッドが落ちてくるのを見たんです。それに、お母さんからお父さんの話を聞いたばっかりだったし……」


 心臓が苦しいほどに騒いでいた。サクが目の前にいる。俺とミカの娘が。


「顔を……よく、見せてくれないか」

「あ……はい」


 ゴーグルとマスクがゆっくりと外され、その可憐な顔が露わになる。

 黒目がちの大きな瞳に、小さな鼻と薄紅色の唇。ミカにそっくりだが、まだあどけない。肩までの髪で隠れているが、耳の形は俺に似ているはずだ。

 じっと見つめていると、サクは恥ずかしそうに目を逸らして軽く俯き、頬をやや紅潮させた。

 何ということだ……これは——


「……大きく、なったな」


 俺はどうにかそれだけ言うと、熱くなった目頭を指で押さえ、洟をすすった。

 あの小さかった天使は、十五歳の少女へ成長しても、紛うことなき天使だった。


 ぼやけた視界の中で、サクがそっと微笑む。


「あの、あたし、さっき初めて山の神さまにお祈りしたんです。お母さんの病気が良くなりますようにって。それが叶うなら、神さまは本当にいるのかなぁ」

「あぁ……そうだな」


 俺はこれまで、『神』の存在やそれに祈る行為をナンセンスだと思っていた。

 だが今日、その考えはがらりと変わることとなる。

 神は、いるかもしれない。天使が言うのだから、きっとそうなのだ。




 家の外には、村人全員が避難してきていた。中には飛来した火山礫で怪我をした者や、ミカと同じように肺を患っている者もいた。

 怪我人には手当てを施し、重篤な病人にはナノマシンを注入した。静脈を自動感知するガイド付き注射器のおかげで、医療者でなくとも簡単に投与できるのだ。


 外は大量の火山灰が降り続けている。

 子供や老人、安静が必要な者から優先して家の中に入ってもらったが、どう詰めても十五人ほどがあぶれてしまった。

 仕方なく、庭先のプランターの雨除けテントを張り、家に入れなかった者はそこで過ごすことになった。どんどん積もっていく灰をこまめに払い落しながら、これで一晩凌ぐしかない。

 噴煙と降灰のせいで、星も月も全く見えなかった。我が家から漏れ出る明かりが、わずかな希望のように思えた。



 やるべきことをひと通り終えて玄関の軒下で休憩していると、声が掛かった。


「お疲れさまです」

「あぁ……お疲れさま」


 ナギくんだった。

 いつか会いに行こうとミカと約束した、ジンさんの子供。半陰陽だと聞いていたせいか、その姿形や声はどことなく女性的にも感じる。

 くしゃりとした人好きのする、どこか少年っぽい笑顔には、ジンさんの面影が確かにあった。

 穏やかで柔らかい喋り方をするかと思えば、自らを『神』と称する豪胆な謳い文句で村人たちを先導し、押し寄せる火砕流から救ったと聞いて驚いた。

 男性でも女性でもなければ、大人でも子供でもない。そんな不思議な雰囲気を持った、美しい青年だ。

 今はゴーグルとマスクで顔を覆っているが、それでも自然と惹き付けられる。事実、村人たちは皆ナギくんを目で追っていた。それこそ『神』に縋るような視線で。


 俺の隣に腰を下ろしたナギくんから、何気ない調子で切り出される。


「トワさん、あのナノマシンって、ヒルコ症の治療にも使えたりしますか?」

「いや……ナノマシンはあくまで、病気に侵されて損傷した細胞を修復するものだ。ヒルコ症を治療するには、まず体内に入り込んだ寄生虫を殺す必要がある。ルリヨモギギクには成虫を殺すほどの効果はない。もしかしたらナノマシンで進行を遅らせることぐらいはできるかもしれないが、完全に治しきることはできない」

「そっかぁ……」

「特効薬が残ってたら良かったんだけどな。ジンさんに渡した分で全部だったんだ。すまない」

「いえ、その特効薬のおかげで、今までに何人も救われましたから」

「……え?」


 俺は小さく首を捻った。言葉を選びながら、その疑問を口にする。


「ジンさんは……瓦礫の街には帰らなかったと、山羊を飼ってる家の女の子に聞いたんだが……」

「あぁ、ヤコのことですか?」

「そう、確かそんな名前の。ナギくんは、その特効薬を、いったいどこで……?」


 あぁ、とナギくんの声が少し笑んだ。


「砂漠で古びた脱出ポッドを見つけたんです。中には白骨化した父の遺体と、例の薬がありました」


 言葉も出なかった。

 家からの明かりを背にしたナギくんの、ゴーグルの向こうの表情は窺い知れない。

 管理府の怠慢によって起きた、本来は防げたはずの事故。真実を伝えるべきか否か、咄嗟に判断できなかった。


 俺はひと呼吸ついて、ようやく口を開いた。


「ナギくん、ジンさんは……」

「父はちゃんと帰ってきてたんです。特効薬を持って、すぐ近くまで。父がいろいろとお世話になって、ありがとうございました」


 喉の奥が詰まった。


「いや……俺は、何も……」


 小隕石の衝突により、ジンさんの乗った脱出ポッドは本来の軌道から逸れた。そのせいで予定外の場所に墜落した。

 偶然にも、故郷の近くに。

 そう、偶然以外の何ものでもないだろう。

 だが俺には、それがジンさんの意志の力のように思えてならなかった。

 ジンさんの意志が、ナギくんを引き寄せたのだと。


「そうだ。別の『追放者』の荷物の中に、ルリヨモギギクの種と一緒に小麦の種籾が入ってるのを見つけたんです。あの小麦の開発者もトワさんなんですよね?」

「……え?」

「すぐに育って、二ヶ月くらいで収穫できる小麦です。その中に隠すみたいにして、ルリヨモギギクの種が入ってた」

「……あれを、見つけた……?」

「はい、大きな湖のほとりで。小麦の方はすっかり根付いて、みんな喜んでますよ。でもルリヨモギギクは僕の故郷じゃうまく育たなかったから、ヤコから聞いたトワさんの話を元に、東の山を目指してやってきたんです」


 何ということだろう。この青年は——


 二十二年前。

 別れの前夜、コロニーの大衆食堂でジンさんと交わした言葉を思い出す。


——俺、ヒルコ症を予防するための植物を作ろうと思ってるんです。

——今研究してる小麦も、実用化が進めば地球でも役に立つと思います。


 地球上に広がる一面の花畑や黄金色の小麦畑を夢見て、昼夜を問わず開発実験に明け暮れた。

 できた種子を『追放者』の荷物に入れる段取りを付けた。

 その後、俺自身が地球に落とされ、ジンさんとの再会はかなわず、禁を犯してまで送り込んだ種子が放置されているのを目の当たりにした。

 あの時、俺は生きる希望を見失った。それまでしてきたことは何もかもが無駄だったのではないかと絶望した。


 でも、無駄じゃなかった。

 無駄じゃなかったんだ。


 俺が人生を賭して生み出したものを、ナギくんが拾ってくれた。

 俺の足跡を、辿ってきてくれた。


 見る間に視界がぼやけていく。ゴーグルを外し、次々と溢れて出してくる涙を拭う。

 俺はナギくんの手を握り締めた。


「ありがとう……本当に、ありがとう」

「えっ……いや、あの、トワさん……お礼を言うのはこっちの方ですよ」


 地球に戻ってきてから泣いてばかりだ。またミカに笑われてしまう。

 俺はまた洟をすすり、ゆっくりと息を吐き、どうにか呼吸を落ち着けた。


「そう言えば、あのヤコという子は今も元気にしてるのかな」

「はい、手伝いに来てた家族の息子と伴侶になって、今は二人の子供を育ててます」


 ほっと温かいものが胸に広がる。俺が訪ねた当時は末期のヒルコ症の祖父と二人暮らしだったので、少し気になっていたのだ。


「良かった。あんな酷い砂嵐が吹き荒れる環境で、生きていくのは大変だろうと思ってたんだ。ただ、もうこの辺りも他所のことは言っていられない状況だな。これだけの村人、どこでどうやって生活したらいいのか……」


 わずかの間の後、ナギくんが口を開く。


「あの、僕、少し考えたんですけど……」


 そうして切り出された話は、思いも寄らないものだった。

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