2ー2 月にやってきた旅人

 五年前の暮れ。

 地球からの最後のシャトルが月に到着し、約七十年にも渡った人類移住計画は幕を閉じた。

 だがそれは、このコロニーに住む大半の者にとって、然して重要度の高くない話題だった。何しろ、既に新たな移住者が極端に減っていた頃合いだったのだ。

 俺とて、毎朝七時に自分の端末へ送られてくるニュースでそのトピックを流し見した後、頭の片隅にすら留めることなく綺麗さっぱり忘れていたほどだ。


 しかし、その件は意外な形で俺の人生に関わってくることとなる。



 最終便の到着から一ヶ月ほどが経ったある夜のことだった。俺が仕事から帰宅した直後、部屋の呼び鈴が鳴った。

 訪問者をろくに確認もせず玄関を開けると、そこには前時代的な服装をした、三十代後半ぐらいの男が立っていた。

 移住者だと、一目で分かった。


「夜分遅くにすみません。私はひと月前にこの集合住宅に越してきた者です。失礼ですが……研究所にお勤めの方ですよね?」


 彼は俺の作業服の胸部分を示してそう言った。勤務先である研究所ラボの名前の縫い取りがある箇所だ。

 俺は通勤時もこの格好のままなので、自宅とバス停を行き来する間にでも姿を見られていたのだろう。


 移住者は入植してすぐ、個人情報の記録されたマイクロチップを左手の甲に埋め込まれ、コロニー管理府から住居が割り当てられる。

 この単身者用のアパートメントでは普段から隣近所との付き合いはなく、『最後の移住者』が入居してきたことにも俺は全く気付いていなかった。


「はぁ、そうですが……何かご用ですか?」

「はい、実は訳あって、薬の研究所の方と話をしたいんですが——」

「いや……ちょっと待ってください」


 俺は改めて自分の胸を指した。


「俺の勤め先は『植物遺伝子学研究所』なんです。薬学の方は畑違いだ」

「いや、しかし……他に研究所にお勤めの方に心当たりがなくて……」

「申し訳ないが、力にはなれません。もう夜も遅いですし……すいません、失礼します」


 彼の縋るような目を無視して、俺は扉を閉めた。

 面倒ごとに巻き込まれたくない。ただその一心だった。



 しかし彼の訪問が数日続き、俺はとうとう応じざるを得なくなった。その様子があまりにも必死で、話を聞かない限り毎晩ここへ来続けそうな勢いだったのだ。

 コロニードームの消灯時刻後に騒ぎを起こすのはさすがにまずい。こんなことで、下手に管理府の保安部から目を付けられてもつまらない。

 だからとりあえず事情だけ聞いて、丁寧に断ればいい。そう思っていた。



 足の踏み場にいささか問題のある、少々散らかった部屋。ひとまずの通り道を確保し、彼を招き入れる。

 備え付けの小さなテーブルに差し向かいで腰を下ろすと、彼は落ち着いた声で話し始めた。


「どうも、毎晩すみませんでした。部屋に上げていただけたこと、感謝します。私はジンと申します」

「……トワです」


 俺が一応名乗り返すと、彼はほっとしたように頬を緩めた。


「私は地球の『砂漠の国』で、各地に住む人々に物資を届けるキャラバンの仕事をしています。月へは、ある薬を手に入れるために来ました」

「それで薬学研究所を。いったい何の薬なんですか?」

「ご存知かどうかは分かりませんが……ヒルコ症——ヒルコリア糸状虫感染症という病気の特効薬です」

「あぁ……昔、地球史の授業で習いました」


 それは、蚊という吸血虫が媒介する寄生虫が原因の病だ。

 かつてイヌが感染することの多かったフィラリアの亜種。地球文明期終盤において、主に亜熱帯から熱帯地域でヒトの間での流行が見られた。


「管理府や医療機関にも尋ねたんですが、そんな特効薬はないの一点張りで。薬を専門に研究する施設であれば、もしかしたら……と思ったんですが、関係者しか立ち入れないと門前払いされてしまいました」

「あぁ、なるほど……」


 彼の服装では、自分は移住してきたばかりだと宣伝しながら歩いているようなものだ。

 コロニーへの移住は、身分の高い者や金持ちから優先的になされてきた。だから入植順は、ここに暮らす者にとって分かりやすいヒエラルキーだったのだ。


「地球上には、もう文明は残っていません。あの病に治療法はなく、感染してしまったら後は死を待つのみです。キャラバンの巡行中、同じ病に罹った人たちを何人も見てきました。長くても三年——みんな、一人残らず死んでいった」


 その言葉はあまりに淡々としていて、俺には遠い星で起きている他人事にしか聞こえなかった。

 しかし——


「……私の妻も、ヒルコ症に罹っているんです。進行が早いので、この一年のうちには恐らく……」


 その一言に、俺は思わず息を飲んだ。相槌すらも打てなかった。

 声のトーンにも表情にも、彼の様子にほとんど変化はない。

 だが、俺は気付いてしまったのだ。その瞳の奥にある、悲痛なまでの揺らぎに。

 一瞬にして、疑いようもない現実感が襲い来る。

 同時に、彼がどれほど無謀なことをしているのかという、呆れに近い驚きも。


「ほんの少しでも妻の命が助かる可能性があるのならと……それに賭けて、私は最後のシャトルに乗ったんです」

「あの、でも……月まで来たところで、特効薬が見つかる保証なんてないですよね。それに、例え手に入ったとしても……ちゃんと・・・・、地球に帰れるのか……」


 奥さんの命が尽きる前に——とは、とても言えなかった。


「えぇ……仰る通りです。本当は、残されたわずかな時間、妻の側にいるべきだったんでしょう。だけど、まだ幼い子供たちが母親を喪うことを思うと不憫で……」

「……お子さんのために、ですか」


 俺の問い掛けに、彼は微かに目を見張る。

 しばらくの無言。やがて彼は小さく首を振り、自嘲気味に笑みを漏らした。


「いや……私は弱い人間です。妻を喪うことが、どうしても怖かった。子供たちがどれだけ哀しむかと想像すると、とても耐えられそうにもなかった。妻の命も、子供たちの笑顔も、私にとってはどちらも掛け替えのないものです。両方とも、失いたくなかった——守りたかった」


 声が、震えていた。


「これは私の身勝手な望みです。自分自身の望みのために、家族を置いてここへ来ました。だから……何としてでも薬を手に入れて、家に帰らなくてはなりません」


 その真剣な眼差しから、目を逸らすことができなかった。


「何か少しでもいいので、特効薬の情報がほしいんです。どうか……どうか、よろしくお願いします」


 彼はテーブルすれすれまで頭を下げた。


 先ほど俺が口にしたようなことは、きっと彼自身が何度も自問したに違いなかった。

 彼の行動は、ともすれば逃げのようにも見える。受け容れ難い妻の病から背を向けただけのようにも。

 だが——


「あの……顔、上げてください」


 彼の視線が、再び俺に向いた。

 静かな、しかし決して絶えることのない光を宿した、まっすぐの瞳だった。


 弱い、だなんて。

 この男は、諦めていないのだ。大切な人がこれから先も生き続けるための選択肢を。

 だからこそわずかな可能性に賭け、この見知らぬ場所でひと月もの間、必死に目的のものを訪ね歩いていたのだ。

 よほどの強い意志がなければできないことだ。彼の顔には強い覚悟が表れていた。

 それを考えたら、特効薬の有無を確認するくらいどうということはないだろう。幸い、俺には一つだけ心当たりがあった。


「……薬学研究所に友人がいます。一度、その特効薬のことを訊いてみましょうか」

「……あ、ありがとうございます! よろしくお願いします、トワさん」


 そう言って、彼は俺の手を握った。大きくて、温かい手のひらだった。

 その左手首にはブレスレットが嵌まっていた。深い赤色の石が連なったものだ。瑪瑙めのうだろうか。

 俺の視線に気付いた彼は、少し照れくさそうに微笑んだ。


「これ、妻と揃いのものなんです。旅先でも繋がっていられるようにと、お守り代わりの」


 遠く離れた故郷を想う。それはいったいどんな心境なのだろう。

 生まれた時からコロニーを離れたことのない俺には——それにも関わらず『帰る場所』というものを持たない俺には、上手く想像することができなかった。

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