▶︎ サク
5ー11 魂の根ざす場所に
南の山から立ち昇る噴煙は、一晩経っても相変わらず辺りを覆っていた。とても視界が悪い。火山灰が地面にどんどん降り積もっていく。
そんな中、あたしたちは丘の上の花畑にいた。
この地を離れて、ナギさんと一緒に『砂漠の国』へ行く。その前に今咲いているルリヨモギギクを残らず刈り取ろうと、カグさまから話があったからだ。
それは他でもないナギさんの望みに沿うためでもあるし、大事な役目がもう一つ。
——だったら頭だけじゃなくて、茎で切り取った方がいいと思います。
あたしがそう提案した時に、口添えしてくれた人がいた。
——俺が『砂漠の国』へ行った時も、この葉から出る匂いのおかげでほとんど蚊に刺されなかったんだ。
トワさん——あたしの、お父さんだ。
初めはあたしに対してどことなく遠慮がちだったトワさん。だけど、あたしとお母さんのことをすごく気に掛けてくれているのがよく分かった。
だから、長年離れ離れで、面識すらもほとんどなかったこの人を『お父さん』と呼ぶことを、あたしは心の中でちゃんと決めた。
そんなこんなで、ナギさんやお父さん、村の人たちも含めた大勢で手分けしてルリヨモギギクを刈ることになった。空気も視界も悪いから、みんなゴーグルと防塵マスクでしっかりと顔を覆った姿だ。
灰を払いつつ、切り取った花を籠へと入れる。茎も葉も汚れてしまっているから、なるべく早く洗わなくちゃならない。
——たった一晩灰に晒されたくらいで駄目になるほどヤワな花じゃないよ。生きてるうちに刈り取れば、成分は問題ないはず。表面に付いた灰を落としきるのは難しいから、駆虫薬としての服用はやめといた方がいいけど、香として焚く分にはたぶん大丈夫だよ。
それがお母さんの見解だった。
師匠でもあるお母さんの言葉は心強い。やっぱり、あたしには学ばなきゃいけないことがまだまだたくさんあるんだ。そう思ったら、何だか嬉しかった。
広い花畑で作業する人々の中に、あのシノおばさんの姿もある。その左腕の包帯は、昨夜あたしが巻いたものだった。飛んできた火山礫が掠めて傷になっていたからだ。
——……ありがとね。
手当てが終わった後、小さな声でぼそりと言われた言葉が、ずっと耳に残っていた。
あたしは少し緊張しながらシノおばさんに話し掛けた。
「あの……怪我の具合はどうですか? 痛むようなら、無理せず休んでてください」
するとシノおばさんは、ふん、と鼻を鳴らす。
「あたしゃ、ずっと野良仕事ばっかだったんだ。こんなのどうってことないよ。大きなお世話さ」
「す、すみません……」
やっぱり、この人のことはちょっと苦手だ。
「……昨日の化膿止めの軟膏と痛み止めの飲み薬、よく効いたよ」
「……えっ?」
聞き逃しそうなぐらい小声だったのと、その内容が意外すぎたのとで、返事がひっくり返ってしまった。
「こんな広い花畑、今まであんた一人で作業してたんだね」
「あ、はい……」
「さぁ、さっさと終わらすよ。こんだけ人数いりゃ、あっという間だろ」
ぶっきら棒にそう言うと、シノおばさんはくるりと背を向けて行ってしまった。
胸の奥がむずむずと温かい。あたしはみんなに負けないように、気合いを入れて仕事に戻った。
丘の上での作業を終えてから、あたしたちは簡単な旅支度をした。
とは言っても村の人たちはほとんど着の身着のままだ。あたしも家にあったほんの少しの水や食糧、保管していた生薬や調合器具などをまとめただけだった。
お父さんは、まだ安静が必要なお母さんを運ぶために、座面を取り付けた
「え……これに座るの? これじゃ、トワの荷物みたいじゃないの。あたし、自分で歩けるから……大丈夫だよ」
「駄目だ。荷物なんかじゃない。ミカ一人くらい軽いものだ。これが嫌なら抱えていこうか、お姫さまみたいに横抱きにして」
大真面目なお父さんのその言葉で、お母さんは大人しく背負われることになった。
守ってくれる人がいる。これまでずっと
お父さんと背中合わせにちょこんと座ったお母さんは、まるで十五歳の女の子みたいに見えた。
一人で歩き慣れた山道を、こんな大勢でぞろぞろと進んでいくのは、とても不思議な気分だった。
ほんの少し先すらも霞む視界に、むしろどこか夢の中にいるような心地で、灰の積もった地面をふわふわと踏んでいく。
——まずは西の山を越えて、
出発前にあったナギさんの話を頼りに、みんな無言のまま歩き続けていた。誰も彼もが疲れているけれど、今はとにかく前に進むしかない。
しゃん、しゃんと、隣にいるナギさんの荷物に付いた鈴が鳴る。太陽の光の遮られた世界で、その音にとても勇気付けられる。
険しい西の山の頂を越えると、辺りを覆っていた灰が薄くなったのが分かった。斜面を下れば下るほど、空気が澄んでくる。
進む先に大地の切れ目が見えてきた頃、あたしはふと足を止めて、後ろを振り返った。
すると突然、ぱぁっと霧が晴れるみたいに、疑いようもない現実感が襲ってきたんだ。
山の向こう、真っ黒な噴煙が垂れ込める空。
あの下に、あたしの故郷がある。
日々の暮らしに、楽しいことなんてほとんどなかった。村には嫌な人だっていた。
あたしは一生あの場所で、延々と同じところを巡るだけの、終わりのない生活を続けていくものだとばかり思っていた。
だけど、いったいどうしてだろう。今、胸が苦しくて仕方がないのは。
まざまざと蘇ってくるのは、お母さんと二人、あの森の中の家で過ごした記憶だ。
春に生い茂る野花、モモカミツレのお茶、根菜ばかり入ったスープ。
山菜の見分け方、薬草の知識、薬の精製方法を学んだ日々。
空に向かってそびえ立つ電波塔、それを囲むようにして咲く青いルリヨモギギクの花。
そよぐ風の音も、降り注ぐ雨の匂いも、ざらついた土の手触りも、竃にくべた火の温かさも。
全部、あの場所にあった。
あの場所にしかないものだった。
不意に泣きたくなった。
ナギさんの声が蘇る。
——魂の根ざす場所というものが、人にはあるんだと思います。
あぁ、そうか。
あの場所で生まれて、あの場所で育って、あの場所で暮らしてきた。
あたしは確かに、あの場所で生きていたんだ。
視界が滲んできて、小さく首を振る。
泣いちゃ駄目だ。せっかくナギさんが『砂漠の国』に招いてくれたのに。
「サク、どうしたの?」
「いえ……何でもないです」
ナギさんに答えて前を向くと、ゴーグル越しに目が合った。
優しい瞳。心臓がどきりと跳ねる。
「大丈夫、戻ってこられるよ」
「あの、違うんです、そういうんじゃ……」
「と言うか、また来ないと。ルリヨモギギクはあそこにしか咲いてないんだからさ」
「あ……そうですね」
「だから、また一緒に来よう。あの花を採りに」
柔らかなナギさんの声。くすぐったいような、どこか甘いような気持ちが、胸の奥に湧いてくる。
気付けば、あたしは自然に微笑んでいた。
「……はい!」
思っていたよりもずっと明るい声が出た。
あたしの魂はここにある。ここにしっかりと根を張っている。
だからこそ、あたしはどこにだって行ける。どこでだって、生きていける。
季節が巡れば、きっとまた花が咲く。命を引き継いで、新しい花が咲く。
そうしたら、何度だって帰ればいい。あたしの故郷へ。ルリヨモギギクの咲くあの丘へ。
風が吹く。暖かい追い風だ。
空の高いところを飛ぶ鳥が、大きくぐるりと旋回して、西の方へと羽ばたいていった。
行こう、『砂漠の国』へ。
そして、あたしはまた歩き始めた。
—第5章
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