エピローグ めぐりの星の迷い子たち
▶︎ サク
EPー1 運命の少女の花蕾は綻ぶ
一滴、二滴。イネ科の香草から抽出した精油を、瓶の中に垂らす。それがタチジャコウソウのエキスを混ぜ込んだ蒸留水の表面に、ぽわりぽわりと波紋を作る。すると、たちまち辺りにふんわり爽やかな香りが拡がった。
蚊除けスプレー試作品、第五号の完成だ。
あたしは瓶に霧吹きを取り付けて、さっそく自分の服にかけてみた。匂いは今までの中で一番良かった。効果はどうだろう。
窓の外を見れば、雲の切れ間に青空が覗いている。雨上がりは蚊が増えるからちょうどいい。
あたしは立ち上がって、作業部屋を出た。
『砂漠の国』の、雨季の終わり。
残念ながら、ここへ来る道中のひと月の間に、体力のないお年寄りが三人ほど命を落としてしまった。でも、それ以外の人々は旧時代の建物をうまく利用して、新しい生活を始めていた。
慣れない土地、慣れない気候。最初は誰もが不安な面持ちだったけれど、街の人たちの助けも借りて、だんだんと元気を取り戻しつつあった。
雨上がりとはいえ、陽射しが強い。あたしは麻のストールを頭から被って、街の中をぶらぶらと歩いていく。
崩れた旧時代の建物が折り重なる中に、ぽつぽつと家屋がある。『瓦礫の街』の名前に相応しいこの風景も、やっと目に馴染んできた。
途中、新しく顔見知りになった人たちと行き合って、挨拶を交わす。
故郷で暮らしていた時は、村に行くにも肩身の狭い思いをしていたものだけれど、ここではもうそんなこともない。
遠くからやってきたあたしたちはみんな等しく『他所者』だったし、それにも関わらずこの街の人々はとても親切だから。
まだ移住して間もないけれど、あたしは『砂漠の国』が大好きになり始めていた。
瓦礫の合間を縫うように進んでいくと、とある一軒の家が見えてくる。
ナギさんとナミさんの生家だ。
この街に来てすぐ、あたしは両親と共にここを訪れた。ジンさんのお墓参りをするために。
その時、お父さんがじっと
もちろん、あたしとお母さんはジンさんに会ったことがない。だけどあたしが生まれたのは、きっとジンさんのおかげなんだ。お父さんの様子を見ていたら、自然とそんな気持ちになった。
何気なく、お墓のある庭を覗いてみる。
そこに思いがけず人影があったので、あたしはびっくりして足を止めた。
その人が、ゆっくりと振り返る。
「あら、サク。こんにちは」
ナミさんだった。
あたしは慌てて頭を下げる。
「ごっ、ごめんなさい! 勝手に入っちゃって……」
「いいえ、自由に来てくれていいのよ。ここにはもう誰も住んでいないんだから。サクが来てくれて、父も喜んでると思うわ」
あたしの腰くらいの高さがあるごつごつした墓標。そのすぐ側に、抜かれた雑草がひとまとめにしてあった。時々こうして、ナミさんが手入れをしているんだ。
「いい匂いがするわね。ひょっとして、また新しい蚊除けスプレーかしら」
ナミさんは柔らかく微笑んでそう言った。ナギさんとそっくりの綺麗な笑顔に、思わずドキドキしてしまう。
「あ……はい、そうなんです。効果を確かめるのに、散歩をしてたんです」
「すごいわ。サクたちが来てくれてから、蚊が怖くなくなったもの。この前のスプレーも、キャラバンの巡行先で好評だったってナギが言ってたのよ」
ナギさんの名前が出て、心臓が跳ねた。だけどあたしはどうにか平静を装う。
「あの、キャラバンって、もう明日には行っちゃうんですよね」
「そうね、集会の後に出発するはずよ」
「そうですか……」
この三ヶ月の間で、キャラバンは既に二周していた。彼らが瓦礫の街に留まっているのは、せいぜい一週間だ。
キャラバンの巡行の間、ナミさんはずっとこの街でナギさんの無事の帰りを待っている。
そのことが、お母さんと重なる。お父さんの帰りを待ち続けていたお母さんと。
待つだけの辛さを、あたしは想像することしかできない。
あたしは少し迷ってから、口を開いた。
「あの……ナミさんは、怖くないんですか? もしナギさんが旅の途中で何かあって、帰ってこなくなったら、とか……」
言ってしまってから、縁起でもないことだったかもしれないと思った。だけどナミさんは気にした様子もなく、笑みを深くする。
「そうね。もちろん心配なこともあるけど、大丈夫よ。私はナギを信じてるの。ちゃんと危険を見定めて、やるべきことをやって、またここへ帰ってくるって。私の兄はそれができる人だわ」
ナミさんの透き通った声には、強い芯があった。
「だから私も、私にできることをするのよ。人々の声を聞いて、みんなと一緒に生活の営みを紡いで、街を守る。そうしたらきっと、ナギも安心して旅ができるでしょうから」
自分にできること。
その言葉が、胸の奥に沁み入っていく。
このひと月くらい、ずっと考えていたことがあった。
もっとみんなの役に立ちたい。あたしにできることは何だろう、と。
そうして考えた末、あたしの中にある一つの想いが芽生えていた。だけどそれを行動に移すのに、なかなかどうして勇気が出ない。
でも、穏やかに微笑むナミさんを前にしたら、その気持ちを言葉にしてみようと自然に思えた。
あたしはようやく初めの一歩を踏み出す。
「あの、ナミさん。相談したいことがあるんですけど——」
散歩から戻ると、あたしは家の裏手にある、古いガレージへと回った。
重い扉の陰からそっと覗けば、お父さんとお母さんが『研究』を行なっているのが見えた。
「うーん……枯れ草を混ぜ込んだのはあんまり良くなかったのかな」
「やっぱり問題は酸度だろうか。三番のプランターより五番の方が苗の育ちがいい」
「ほんとだ。でも二番も負けてないよ。とりあえずこの子たちは様子見でいいかな」
「そうだな。今度はこの肥料も試してみよう」
二人の前にはいくつものプランターが並んでいる。
そこに植わっているのは、
『火山の国』から持ち帰った花はお香に加工して、さっそく利用していた。
今年の蚊のいる時期の分はギリギリ保ちそうだけれど、この地にもどうにか根付かせられないかと、あたしたち家族はいろいろな土を作って苗を育てているんだ。
お母さんは、すっかり元気になった。がりがりに痩せていた身体も少しふっくらして、顔色もいい。前みたいに長い髪を後ろで一つのおさげに結って、きびきびと動いている。
不意に、お父さんが虫を払う仕草をした。
「あ、蚊……」
「ほんとだ、油断も隙もないね」
「ミカ、刺されてないか?」
「うん、たぶん大丈夫」
「念のため、よく見せてくれ」
お父さんがお母さんを引き寄せる。
「万が一どこか刺されてたら大変だ……」
「あ、うん……」
甘く囁くような声。お父さんの指が、お母さんの頬に触れる。じっと見つめ合う二人。こっちに背を向けて、あたしのことには気付いていない。
どうしよう。これはどうしよう。とても入り辛い。また出直そうか。
そろりと
二人が同時にびくりとして、あたしの方を見た。
「ごっ……ごめんなさい!」
「あっ……サク、えっと……」
「す、すまない、気付かなかった」
あたしの両親は慌ててぱっと身体を離す。一瞬にしてかぁっと顔が熱くなった。
「サ、サク、出かけるの?」
「あっ……ううん、戻ってきたとこ。蚊除けスプレーの新作ができたから、散歩がてら試してみたの」
どうにか平常心を取り戻そうと、普通の調子を心掛けて会話する。
「へぇ、ほんとだ、いい匂いだね。効果はどうだった?」
「街をぐるっと一周してきたけど、全然刺されなかったよ」
お父さんが口を挟んでくる。
「サクは研究熱心だな」
「うん、少しでもみんなの役に立つものを作りたいんだ」
「そうか……」
お父さんが感極まったような眼差しを向けてくる。すぐこれだ。ちょっと前までは、『お父さん』と呼び掛けるだけで涙ぐんでいた。
「もうすぐキャラバンの出発だから、できればそれに間に合わせたいんだ」
「話には聞いてたけど、キャラバンって本当に旅ばっかりなんだね。ついこないだ帰ってきたかと思ったら」
「うん……明日の集会の後には、もう行っちゃうんだって」
お母さんがすうっと目を細めて、唇の両端を吊り上げる。
「ナギくんとも、あんまり会えないから寂しいでしょ」
「……ふぇっ?」
心臓がまたどきりと跳ね上がって、思わず変な声が出た。お母さんはくすくす笑っている。
強張った表情のお父さんが、あたしとお母さんをきょろきょろ見比べる。
「え? ちょ……どういうことだ、それは……」
「トワは気にしなくていいよ。こっちの話だから」
「いや、しかし——」
「試作品、気に入ってもらえるといいね」
「あ……えっと……うん」
そわそわと胸の奥が騒ぎ始める。
あたしに何ができるのか。
考えに考えて、行き着いた一つの答え。
いつも明るい笑顔のお母さん。
あたしたちを優しい瞳で見つめるお父さん。
大好きなあたしの両親。やっと始まった家族三人での暮らし。
それを思うと、ちょっと
だけど、さっきナミさんにも後押ししてもらったから。
二人の顔を順番に見て、小さく息をつき、あたしは口を開いた。
「お父さん、お母さん。聞いてほしいことがあるの。あのね、あたし——」
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