2ー10 さよならの言葉さえ

 久々に訪れた宇宙ステーション。

 五年前は、ルリと並んでジンさんを見送った。それぞれの幸せを願い、どうか元気でと手を振り合った。よもや自分が宇宙船スペースプレーンに乗る側になろうとは、露ほども思っていなかった。

 見覚えのある無機質な通路に、足音がやたらと大きく響く。あの時と違って、俺の隣にいるのは護送を担当する刑務官だ。おまけに両手首には手錠が掛けられている。


 どうしてこうも、人生の歯車が狂ってしまったのか。

 自分の置かれた状況に対する現実味を著しく欠いたまま、月からの出立は刻一刻と迫っていた。


 ボーディングブリッジに繋がるシャッターの前に来た時だった。


「トワ!」


 背後から、耳に馴染んだ、今ここで聞こえるはずのない声がした。

 それに導かれるようにして、ゆっくりと振り返る。

 視界に入ったのは、両脇をスーツの男二人に固められたルリの姿——もう会うことはかなわないだろうと思っていた、俺の大切な人の姿だった。

 あぁ、痩せたな。

 真っ先に思ったのは、そんなことだった。いつも勝ち気で、華やかな笑みに彩られていたその顔は、今や色濃い疲労の陰に沈んでいる。


「トワ……」


 その声に、応えることはできなかった。手を伸ばしたくとも許されない。そんなことをしても、余計にルリを苦しめるだけだ。

 俺はまたゆっくりと背を向ける。

 その瞬間、ルリが男たちを振り切って駆け出すのが見えた。


「トワ!」


 背中でルリを受け止める。細い両腕が後ろから回され、抱きすくめられた。

 俺の胸元を掴む、色白の華奢な手。その左手の薬指には、俺の贈った指輪が嵌まっていた。


「トワ……! 嫌よ、こんなの嫌……」


 肩に押し付けられた唇から、切れ切れの言葉が零れ落ちる。


「ごめんなさい……私、他の人と、結婚させられそうになって……あなたのとのことは、父には黙ってたのよ……でも……」


 あの男の手に掛かれば、愛娘が自分の思い通りにならない原因を追及し、排除することなど容易い。

 俺が不正を行っていることを心配していたルリ。あれは、父親の容赦のなさを懸念してのことだったのだ。


 俺たちは、少しずつ間違いを犯した。

 それに気付いたルリと、気付かなかった俺。

 警告は確かになされていたはずなのに、俺はそのことにすら気付けなかった。

 小さかった瑕疵は、俺がぼんやりしているうちに、取り返しの付かないほど大きなひずみとなってしまった。

 俺はなんと愚かだったのだろう。今となっては、もう何もかもが手遅れだ。

 軋んだように胸が痛む。ルリの方に向き直って抱き締め返すことができたら、どれほど良かっただろうか。


 程なくして、ルリは俺から引き剥がされた。背中の温もりが消え、思わず後ろを顧みる。

 最後に目にしたルリは、男たちの拘束から逃れようと必死に髪を振り乱し、美しい相貌をぐしゃぐしゃに歪め、大粒の涙で頬を濡らしていた。


 それは、今まで見たどんな彼女よりも愛おしい姿だった。


 上手く呼吸ができない。いっそのこと胸を掻き毟って、めちゃくちゃに壊してしまいたい。

 役立たずの指先が、酷く震えていた。

 俺にはもう、あの涙を拭ってやることすらできないのだ。


 刑務官に促され、俺は唇を噛み締めて前を向いた。進むべき道の扉が、音もなく開かれる。

 繰り返し俺の名を叫ぶルリの声だけが、辺りに虚しく響き渡っている。

 言うことを聞かない足を、一歩二歩と無理やり進めていく。そのたび身体の一部を千切り取られているかのように錯覚した。

 シャッターが、俺の背後で重い音を立てて閉まった。耳をつんざく静けさが寒々しい。

 ルリが冷たい床に崩れ落ちる音を、どこか遠くで聞いた気がした。



 長く短いボーディングブリッジを渡り、宇宙船に乗り込む。俺は手錠を外され、予め脱出ポッドの椅子に座らされた。

 腰を下ろした瞬間、上着のポケットの辺りで、何かが小さくかさりと鳴ったような気がした。刑務官が立ち去り、扉が完全に閉まってから、俺はポケットに手を突っ込んだ。

 そこに入っていたものに、思わず目を見張る。


 それは、透明の小さなポリ袋に詰まった、無数のルリヨモギギクの種子だった。


 ルリだ。

 俺に抱き付いてきたあの一瞬の隙に、自らも罪に問われる危険を冒して、地球へ行く俺にこれを託してくれたのだ。

 恐らく、花が完成したばかりの時、記念にと俺が渡したものだろう。


「ルリ……」


 まるで何千年かぶりに口にした、彼女の名前。その余韻だけが宙に取り残される。

 胸に走る鋭い痛み。

 途端、俺はどうしようもなく理解してしまった。

 この呼び掛けに応える声は、もう決して聞こえはしない。

 この先二度と、ルリに会うことはない。

 俺たち二人の運命は、決定的に分かたれてしまったのだと。


「ルリ……」


 ぽたり、と袋の上に雫が落ちる。

 それを契機にして、堰を切ったように溢れ出す。今まで見てきた、いろいろなルリの姿が。

 勝ち気な瞳。強気な口調。そして一途で健気な心。

 柔らかな肌。その温もり。俺の名を呼ぶ甘い声。

 拗ねた時に唇を尖らせるのが癖だった。笑うとぱっと周囲が華やいだ。俺しか知らない素顔は、少し幼い印象だった。


「ルリ……!」


 研究が思うように進まない時も、ずっと寄り添ってくれた。

 掛け替えのない喜びを分かち合った。

 いつしか、隣にいるのが当たり前になっていた。

 この先もずっと、当たり前に隣にいてほしかった。


——一度でいいから見てみたいわ、見渡す限り一面に広がった花畑を。


 ある光景が脳裏に浮かぶ。

 満開に咲き乱れたルリヨモギギク。美しい瑠璃色の花がそよ風になびき、さわさわと波を打つ。

 そこに重なる、ルリの姿。明るく光り輝く、愛らしい微笑み。


 喉の奥から嗚咽が漏れる。ルリの託してくれた種子を握り締める。


 さようなら、俺の大切な人。

 どうか、どうか。

 俺のことなど早く忘れて、幸せに生きてくれ。


 エンジンの振動が身体の芯を揺さぶる。

 後悔も、胸の痛みも、底の見えない哀しみも。ルリへの思慕や、未練さえ。全てがない交ぜとなって意識の向こうに融けていく。

 記憶に焼き付く青色の花々と、愛しいルリの幻を残して。

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