4ー5 まるで世界に二人きり

 かくして、ミカとの同居生活が再開した。

 薬草の手入れや加工を教わりつつ、衣食住を共にする日々。

 ただし夜は寝床を分け、表の部屋で眠るようにした。もうこれ以上の間違いを犯すわけにはいかなかった。


 秋が深まるにつれ、ミカの仕事は乾季に向けた準備が中心になっていた。

 収穫時期となったシャクヤクの根を大量に採取してきては、乾燥、粉砕する作業が続く。これが、寒い季節に需要の増加する感冒薬の材料となるのだ。


 村の者たちも、食糧を備蓄する作業に追われていた。今年は例年より穀物の収穫量が多かったらしい。

 ミカは自宅の庭や丘の上で増えたルリヨモギギクを粉末にし、農作物用の殺虫薬として提供していた。恐らく、その効果が出たのだろう。


 だが、ルリヨモギギクに関しては問題もあった。主に、飼育されている家畜などへの影響だ。

 俺が旅に出ている間、家畜小屋の周辺に植えられたルリヨモギギクを乳牛の一頭が誤って食べ、中毒症状を起こして死ぬという事件があったらしい。虫を寄せ付けない芳香を期待した村人の一人が持ち帰ったものだった。

 また、畑や建物の周りに撒布された粉末が風で飛んでしまい、風下にあった養蜂場の蜂の一割ほどに被害が出たようだ。


 俺たちはカグさんと話し合った。

 ルリヨモギギクの栽培については、一部の村人からの強い要望により、この丘の上だけで行うことになった。また、粉末の撒布は決められた日に安全を考慮した方法で行うことなど、いくつかのルールが制定された。

 これを機に、庭のルリヨモギギクも全て丘の上に移した。繁殖力が強く、他の薬草の生長を阻んでしまうからだ。

 まさに諸刃の剣のような花だったが、農作物の虫害対策、そしてヒルコ症感染予防策として、評判は上々だった。


 カグさんは四十歳とまだ年若いが、村のおさに相応しい人格者だ。月コロニーの罪人である俺の話にも耳を傾け、俺を仕事や食糧分配など村のコミュニティの中に組み入れてくれた。

 ただ、村には頭の固い老人も多く、ミカや俺を村のまとまりとは一線を画す余所者と見なす者もやはり少なくなかった。




 秋が過ぎていよいよ乾季に入る頃、ヒルコ症だったカグさんの妻が亡くなった。

 その直前まで薬を持って様子を見にいっていたミカは、さすがに意気消沈していた。


『別れの儀』は、死の翌日。

 儀式の行われる広場にミカと二人で足を踏み入れた時から、妙な空気を感じた。村人たちは遠巻きにこちらを窺いながら、ひそひそと言葉を交わし合っていた。

 以前からミカに対する陰口を耳にしてはいたが、この日はいつもに増して不穏な雰囲気だった。


 並べられた椅子の最後列の端に腰を下ろすと、囁き声が漏れ聞こえてくる。


「……よくものうのうと顔を出せたもんだよ、あの女」

「……しかも男連れでさ」


 俺が腰を浮かせかけると、ミカに袖を引かれた。


「トワ、いいから」


 ミカがカグさんと不貞関係にあるという噂。それは未だ村人たちの中に淫奔なミカの虚像を形作っていた。

 俺が旅から戻ってきてあの家に居着いたことは、そのイメージをさらに悪い方向へ拡げるのに一役買っているようだった。


 神職の末裔だというカグさん自身が唱える祈りの句を聞き、遺体の横たえられた祭壇に花を手向け、広場から立ち去ろうとした時だった。


「人殺し」


 耳に届いた穏やかでない言葉に、思わず後ろを振り返る。

 日頃からミカに嫌がらせをしてくる女性だった。名前は忘れた。

 俺はミカを庇うように前に出て、低い声で応じる。


「……何ですか?」

「いや? みんな噂してんだよ。奥さまはその女に殺されたんじゃないかってね」

「それはどういう……」

「ただのヒルコ症にしちゃ、死期が早い気がするんだよ。その女、あんだけ足繁く通ってたわけだから、奥さまにちょっとずつ毒を盛ることだってできただろ? あの青い花にはずいぶん強い毒があるみたいだしね」

「何を根拠に? ミカがそんなことするわけないでしょう」

「どうだか。村外れとはいえ、そういう女がいるかと思うと気が気じゃないんだよ」


 周囲の人々が、見て見ぬ振りをしつつも耳をそばだてているのが分かった。

 女は鼻で笑う。


「あの花、お兄さんが持ってきたものなんだろ? お兄さん、うまいこと利用されてるだけなんじゃないのかい? その女が奥さまの後釜に収まったら、きっと用なしになるだろうよ。そうなる前に、考えた方がいいよ」


 途端、頭に血が上った。


「いい加減にしてください、ミカはそんな人じゃない! ミカは薬草師なんだ。自分の仕事に矜持を持って、いつも真摯に薬と向き合ってる。尊敬できる人です。おかしな言い掛かりはやめてください!」


 思わず声を荒げてしまい、はっと我に帰った。

 女が心外とばかりに睨んでくる。


「何さ、こっちは親切に忠告してやってるってのに」


 気付けば、その場の全員の視線を集めていた。異物でも見るような無数の目。程なくして、どこか余所余所しいざわめきが戻ってくる。

 カグさんが村人たちを宥め、妻は間違いなくヒルコ症で死んだのだと、ミカには看病を手伝ってもらっていただけなのだと、毅然とした口調で説明している。

 これ以上ここにいても、騒ぎを大きくするだけだろう。

 俺はカグさんに頭を下げ、呆然と立ち尽くすミカの手を引いて、逃げるように広場を後にした。



 俺もミカも無言のまま、川沿いの道を家に向かってゆっくりと歩いていた。日没の迫る空は、燃えるような茜色に染まっている。

 村と家との中間地点にある岩の辺りに差し掛かった頃、ミカがぽつりと零した。


「カグさまとは、本当に何にもなかったんだよ」


 淡々とした口調だった。顔にはあの大人びた笑みが貼り付いている。


「でも、ああやって言われるのも仕方ないんだ。もしカグさまがいろいろ融通してくれなかったら、暮らしていけないのは事実だからさ。実際、ちょっと好きだったし」

「へぇ……」


 何か、思いの外ショックだった。


「騒ぎになっちゃったね、『別れの儀』」

「……あぁ、俺のせいだな。後でカグさんに謝りに行ってくる」

「あたしのせいだよ。あたしのせいで、トワまで悪者みたいになっちゃった。ごめん」

「ミカが謝ることじゃないだろ」

「あんなの日常茶飯事なんだよ。シノさん、いつも何かにつけて嫌味言ってくんの。あの人こそカグさまに気があるんだよ。あたしに嫉妬してるんだ」

「それにしても、限度がある」


 先ほどの失礼な女は、シノという名前だったか。


「ルリヨモギギクのことだって、あんな酷いこと言われて……とばっちりだよね、ごめん」

「だから、ミカのせいじゃない。ミカは何も悪くない」


 一瞬の間の後、ミカは静かに続ける。


「でも……シノさんが言ったこと、あながち間違いじゃないかもしれないんだ」

「……え?」

「あたしね、奥さんにルリヨモギギクの駆虫薬を飲ませたの」

「いや、あれは発症前の幼虫にしか——」

「うん、分かってた。分かってたけど……もしかしたら、ちょっとでも進行を遅らせられるかもって」

「あぁ……」

「でもあの薬、お腹壊すでしょ。いくら下痢止めを使っても、身体の負担になることは確かなんだよ。だから弱ってた奥さんには、それが命取りだったんじゃないかって……結果的に死期を早めることになったんじゃないかって」


 ミカは一つも表情を変えず、はは、と乾いた笑みを漏らした。


「薬草師ってさ、ほんと、何なんだろうね。どんな薬を作ったって、致命的な病気を治せるわけじゃない。ただの気休めにも、なるかならないか……」


 ミカの言う通り、植物の持つ薬効など、月にある医療技術と比べたら気休めのようなものだ。風邪程度ならまだしも、重篤な病気に罹患したらもはや人々は死を待つしかない。

 だがそれでも、ミカはカグさんの妻を救おうと手を尽くした。それはカグさんも分かっているはずだ。


 俺は少し迷ってから口を開いた。


「人はみんないつか死ぬ。早いか遅いかの違いだけで」

「……うん、そりゃそうだよ」

「……まぁ、そうだな」


 カァ、カァ、とカラスが鳴いている。

 我ながら壊滅的に下手くそな慰めだった。

 他に掛けるべき言葉を探しているうちに、その沈黙はミカによって破られた。


「トワ、ありがとう」


 ミカは軽く瞼を伏せ、紅い唇の両端を吊り上げたままの顔で言った。


「庇ってくれて……あんな風に言ってくれて、嬉しかった……」


 今にも消え入りそうなその言葉は、語尾がわずかに揺らいでいた。


 俺は足を止め、思わずミカを引き寄せた。そのまま包み込むように抱き締める。

 か細い腰。少しでも力を入れたら、簡単に折れてしまいそうだ。

 やがて、華奢な肩が小さく震え始めた。すすり泣きの声は、すぐに抑えきれない嗚咽へと変わっていく。

 俺の胸元が、ミカの涙で濡れていく。


 様々な感情がない交ぜになっていた。

 ミカを侮辱された激しい憤りと、引き下がらざるを得なかった歯痒さと、カグさんへの小さな嫉妬心と。

 村人たちの視線を思い出す。あんな風に猜疑の目を向けられる辛さは、俺にもよく分かる。

 ミカ自身はどれほど悔しかっただろうか。どれほど傷付いただろうか。想像しただけで、心が潰れそうだった。


 音もなく、陽が落ちていく。

 まるで、この世界に二人きりだった。


 やがて泣き止んだミカが、俺を見上げて吹き出した。


「ちょっと、なんでトワまで泣いてんの」


 紅く染まった頬と鼻。雫の乗った長い睫毛。自然に零れた笑顔が、夕暮れの光を弾いている。


 その瞬間、胸の中から溢れ出したのは、両手で抱え足りないほどの愛おしさだった。


 柔らかく弧を描く、果実のような唇。俺はその感触を知っている。そこに口付けたい衝動をどうにか押し込めて、小さな頭にそっと手を乗せた。

 感情の昂りに伴って勝手に反応してしまう自分の身体に若干の情けなさを感じつつ、俺は長く細く息を吐く。


「ミカ……」

「……何?」


 これから二人で向かう先は、たった一つしかない。

 それはなんと甘く、心安いことだろう。


「帰ろう」

「……うん」


 ミカの手を取り、再び歩き出す。

 握り返されたてのひらは、しっとりした熱を持っていた。




 月日はまたたく間に流れていく。

 初めての乾季は、気の滅入るような日々だった。目に映る景色は色彩を欠き、風の冷たさに身が凍えた。

 日照時間は短くなり、朝晩の冷え込みも厳しくなっていく。俺たちの生活は相変わらず慎ましく過ぎていった。



 そして、一年のうち最も寒い、乾季の半ば頃。

 ミカの身体に、新しい命が宿った。

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