4ー6 ずっと望んでいたもの

 コロニーでは、赤ん坊の誕生は専用施設の内部でしか起こらない現象だった。

 未だに明確な原因は不明だが、月の環境下において人類の生殖機能はうまく働かない。

 それゆえに、培養液の中で組み合わされた受精卵は人工子宮で育てられ、十月十日とつきとおかの後に赤ん坊の形となってそこから出される。全ての子供が、そのようにして生まれていた。

 だからミカが自然に身籠ったことは、俺にとって大きな衝撃だった。




「あたしね、実を言うと、これまでずっと『いつ死んでもいい』って思ってたんだ。人生に未練なんてなかったから」


 季節は巡り、俺にとって二度目の雨季が終わりに近づいた頃。

 ある晩、食後にタンポポの根を煎じた茶を飲みながら、ミカが不意にそんなことを言った。


「でも、今は違う。今死んだら、きっと未練しか残らない」


 ミカはもう臨月に入っている。

 少し動くだけでも相当しんどそうだが、出産に向けて体力を付けた方がいいからと、こちらが心配になるくらい働き続けていた。


 出産には自分たちだけで臨むことを決めた。

 助産経験のある女性に手伝いを頼めないかと村人の何人かに当たってみたものの、快い返事を得られなかったのだ。ミカがカグさんの妻を毒殺したと疑っている者も未だにいるようだった。

 ならば初めから他人など頼らないと、ミカは少し意固地になっていた。


 医療設備のない地球では、出産には大きな危険が伴う。つい三ヶ月ほど前にも、分娩中の異常で命を落とした女性の『別れの儀』があったばかりだ。

 手伝いを断られたのは、恐らくそのせいもあった。皆、命の責任を負うことが怖いのだ。


 俺たちは家の本棚にあった書物を参考にして、二人で様々な準備を進めていた。

 だが正直なところ、俺は酷く不安だった。


「トワ、そんな顔しないでよ」

「あ……あぁ、ごめん……」


 気付かないうちに、表情に出てしまっていたらしい。


「そりゃあね、あたしだって怖いよ。怖いけどさ……大昔から、女は子供を産んできたんだもん。ちゃんと産めるはずなんだよ」


 どこか自分自身に言い含めるような口調だった。


「あたし、子供を産むことなんて一生ないと思ってたんだ。自分以外の誰かの人生なんかに責任持てないって。でも、その考えも変わった」


 ミカが俺の手に触れた。細い指が、俺の指先に絡む。


「あたしはこの子を産む。それで、成長を見届ける。それが楽しみで仕方ないんだよ」

「ミカ……」

「不安だけどさ、とりあえず顔上げとこうよ。大丈夫、きっと上手くいくよ」


 大丈夫。

 その言葉が、胸の奥深くに沁み入っていく。


「……あぁ、そうだな」


 不安が完全に消えたわけではなかったが、少なくとも前を向こうと思えた。

 身の内に命を宿したミカは強くしなやかで、そして美しかった。

 この先も、ミカと同じ未来を見続ける。俺はそう心に誓った。




 それは朝のスコールの後、雲一つない晴天となった、ある爽やかな日のことだった。

 丘の上では深い青色をしたルリヨモギギクの花が咲き、頭上にはそれによく似た薄群青の空が広がっていた。

 午前中から二人で籠いっぱいに花を採取し、太陽が中天をやや過ぎた頃に帰路へ着いた。

 その途中で突然、ミカがしゃがみ込んだ。


「いっ……痛たた……」

「大丈夫か!」


 慌てて駆け寄ったが、次の瞬間にはミカはけろりとして立ち上がった。


「あれ、気のせいだったかも。あはは……」


 だが家に着いて籠を下ろした時、ミカは再びその場にうずくまった。


「こ、これ……来た、かも」

「……分かった」


 俺は思ったより落ち着いていた。

 予め打ち合わせていた通り、多めに湯を沸かして糸と鋏を準備し、何枚もの手拭いや産着を出した。

 まだ痛みのない時間の方が長いうちにミカに食事を摂らせ、二人で寝室に入った。


 陣痛は少しずつ間隔を狭めながら、徐々に強さを増しているようだった。

 ミカは枕を抱え込んで胡座あぐらをかいたり、横向きに寝転がったりと様々に体勢を変えつつ、腹の子が下りてくるのを待っていた。


「大丈夫……まだ、耐えられる……」


 額に脂汗を浮かべながらも、ミカは不敵に笑った。

 俺は汗を拭いてやり、少しでも熱が逃げるように団扇うちわであおぎ、陣痛の合間を縫って水を含ませた。


「ミカ、息しろよ。ゆっくり吸って……吐いて」


 きちんと呼吸をすることが大切なのだと、本に書いてあった。そうしないと、胎児に酸素が送られなくなってしまうのだそうだ。

 俺はミカの手を取り、視線を合わせて、一緒に深呼吸を繰り返した。



 陽が傾き、夕方の雨も降り止んだ頃、痛みに耐えるミカの表情は一層険しくなった。

 俺はミカの腰をさすりながら尋ねる。


「大丈夫か? 我慢できるか?」


 子宮口が全開になるまでは、いきみたい衝動を堪えてやり過ごす必要があるらしい。この時点で無理にいきんでしまうと、産道が裂傷を起こす可能性があるそうだ。


「こっ、骨盤……かち割れそう……っ」


 ミカは切れ切れにそう零し、胃の中身を嘔吐した。汚れた口元を拭って水分を摂らせたが、既にずいぶん体力を消耗しているはずだ。

 それにも関わらず、ミカはほんの一声も弱音や悲鳴を漏らさなかった。

 顔を強くしかめて喉を詰め、短い波間にどうにか呼吸をし、ただただ静かに戦っていた。

 なんと辛抱強い女性なのだろう。

 それがどれほどの痛みなのか、俺には想像すらもできない。だが、この手を握り締める力の強さが、その壮絶さを物語っていた。


 まるで永遠のような時間だった。

 なぜ、ミカだけがこれほどまでに苦しまなくてはならないのか。酷い理不尽に思えた。ミカが産もうとしているのは、俺の子でもあるのに。

 こんなにも長いこと凄まじい痛苦に晒され続けたら、この華奢な身体はいつか壊れてしまうのではないだろうか。

 最悪の結末が、何度も何度も脳裏をよぎった。そのたびに俺はミカを励ます声を掛けた。ほとんど自分に言い聞かせるための言葉だった。


 やがて宵闇が部屋への中と滑り込んできたので、俺はランプに火を灯した。

 その直後、大量の水がミカの股座またぐらから溢れ、シーツを濡らした。

 破水だ。


「ミカ、湯浴み場に行こう」


 俺はミカを抱え上げ、ランプを持って家の裏手にある湯浴み場に移動した。簾で半囲いしただけの、ほぼ屋外のスペースなので、ルリヨモギギクの香を焚くことも忘れない。

 重ねて置いたシーツの上で仰向けになったミカは、陣痛のタイミングに合わせて強くいきんだ。

 一回目、二回目で赤ん坊の髪が見えてきて、三回目でとうとう頭が出た。


「ミカ、あと少しだ!」


 最後のひと息。

 赤ん坊が、ついに足の先までずるりと出てくる。

 俺は血に塗れた小さな身体を大きめの布で抱き止めた。赤ん坊はすぐに、ほやぁ、ほやぁと泣き声を上げ始める。

 おびただしい量の血液。噎せ返るほどの鉄の臭い。普段の俺なら間違いなく怯んでいただろう。

 だが、腕の中にある小さな命が、それを許してはくれない。


 脳が興奮状態だった。何も考えられなかった。身体だけが、幾度となくシミュレーションした通りに動いていた。

 俺は煮沸消毒した糸でへその緒をきつく縛り、鋏で切断した。母体から完全に切り離された赤ん坊を、たらいに張った産湯で洗う。

 改めて清潔な布で赤ん坊を包み、ミカにも見える位置まで移動した。


「ミカ、女の子だ」

「あはっ……本当に生まれた……ちっちゃいねぇ、可愛い」


 ミカは肩で息をしながら我が子を見つめ、心底ほっとした表情で微笑んだ。

 汗だくで髪が額にべったり貼り付き、この半日で一気にやつれたように見えるミカは、それでもこの世で一番美しかった。

 生まれたのだ、無事に。やり遂げた。ミカも、俺も。

 今さらになって手足が震え始め、腰が抜けた。意図せず視界が滲んでいく。鼻の奥がつんとしたので、慌ててすすった。


「やだ、泣いてんの?」

「い……いいだろ、別に」

「いいよぉ。あんたって結構泣き虫だよね」


 伸ばされた手が、俺の髪に触れる。


「ありがと、トワ。たぶん、あたし一人じゃ産めなかった」


 ほやぁ、と赤ん坊が同意するように泣いたので、ミカと二人で声を上げて笑った。



 この日の夜空には月がなかった。漆黒のスクリーンに、無数の星が瞬いていた。


 俺たちは、生まれた娘に『サク』と名付けた。


「月は姿が見えない日でも、ちゃんとそこにいるんだよ」


 ミカはサクを胸に抱き、歌うようにそう言った。


 例え姿が見えなくとも——

 空を仰ぎ、かつての自分に想いを馳せる。

 ジンさんに出会い、家族の絆に憧憬を抱いた日のことを。

 故郷から三十八万キロも離れたこの地球で、あの頃からずっと望んでいたものを、俺はやっと手に入れたのだ。

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