4ー4 ただいまと言える場所

「朝だよ、起きて」


 肩を揺すられ、瞼を開けた。

 俺はベッドの縁にしな垂れ掛かるような格好でうずくまっていた。

 窓の外は明るい。いつの間に眠り込んでしまったのか。思考が茫として、記憶が酷く曖昧だ。


「ごはん、できてるから」


 ミカが平坦な声でそう言った。その無表情を目にするや、一瞬にして昨日の出来事が脳裏に蘇ってくる。同時に、ミカに張られた左頬の痛みも。

 俺は頭を抱え、再びベッドに突っ伏した。

 最低だ。俺は畜生以下の低脳生物だ。

 いったいどんな顔をミカに向ければいいのか。


「ねぇ、早くしないと冷めるんだけど」


 ミカの声に苛立ちが混じる。それでも俺が動かずにいると、重い溜め息が降ってきた。


「もう元気・・でしょ。ちゃんと自分で食べてよ。せっかく用意したんだから」


 どこか棘のある口調だ。ひたすらに耳が痛い。もうこれ以上の迷惑を掛けるわけにはいかなかった。

 俺はようやく身を起こし、緩慢な動作で立ち上がった。ミカの後に続き、覚束ない足取りで表の部屋へと向かう。


 俯いたままミカの正面に腰を下ろす。目の前に置かれた麦飯と山菜汁から湯気が立っている。

 ミカの方を見ることは、到底できそうにもない。


「いただきます」


 ミカがそう言ったのを、まるで他人事のように聞き流す。


 正直、食欲などなかった。俺をここに座らせているのは、底なし沼のような罪悪感だけだ。食べなくてはいけないことは当然知っていたが、どうにもそんな気分にはなれなかった。


「……トワ」


 促すように声を掛けられ、俺はおずおずと椀を手にした。

 縁に唇をつけ、一口すする。温かな汁が乾いた喉を潤し、臓腑に沁み入っていく。

 いつも通り優しい、薄めの塩味。舌に馴染んだ味だ。


 途端、この家で過ごした数ヶ月の思い出が鮮烈に呼び起こされる。

 得体の知れない罪人の俺に、ミカは最初から親切にしてくれた。

 考えてみれば、誰かと一緒に寝食を共にしたのは、物心ついてから初めてのことだった。

 二人で暮らした日々は、とても穏やかで充足していた。

 楽しかった。あの時の俺は頑なに前だけを見ようとしていたが、思い返せば確かに楽しかったのだ。


 それなのに、俺はこの手で壊してしまった。

 胸が詰まり、視界が滲む。

 俺は馬鹿だ。最低の大馬鹿野郎だ。


「……ごめん」


 やっと、それだけを口にした。


 しばらく、無言の時が続いた。

 不意に椅子の動く音が耳に入り、ミカがすぐ隣までやってくる。

 視界の端で、ミカが右手を掲げるのが分かった。

 俺は咄嗟に目を瞑り、歯を食い縛る。


 だが、覚悟した衝撃はいつまで経ってもやってこない。

 代わりに何か温かいものが、腫れた左頬にそっと触れた。

 それは、ミカの指先だった。


「ここ、痛かった?」

「あ……いや……」

「あたし、初めて人を殴ったんだ」


 頬よりも胸が、ずきりと痛む。

 小さな手。植物を、命を育む手だ。誰かを殴るためのものではなく。


 指先が静かに離れていく。


「……待ってて」


 ミカは棚から救急箱を出してきて、俺の左頬に湿布を貼ってくれた。

 淀みのない手付き。肌を掠める緩い熱に、心臓がざわめき始める。

 手当てが終わると、ミカは静かに言った。


「何か弁明は?」


 俺はほんのわずかに首を振った。そんなもの、あるはずもない。


「……話、聞くって言ってんの。いいから、何があったか教えてよ。昨日のことを許すかどうかは、それから決める」


 心が騒ぎ続けていた。ミカは真っ直ぐに俺を見つめている。

 吸い込まれそうに大きな黒い瞳。深い闇の色でもあり、澄んだ夜空の色でもある。

 そうだ。出会った日、俺が何をした罪人なのか尋ねてきた時も、ミカはこんな目をしていた。


 俺は旅に出ていた間のことを、ぽつぽつと話していった。

 ジンさんが故郷に戻っていなかったこと。

 せめて彼の子供に会おうとしたが、辿り着けなかったこと。

『追放者』の脱出ポッドの中に放置されたままになっていた種子のこと。


「もう、何を目標に生きればいいのか、全く分からないんだ。闇の中にいるみたいで、今までやってきたことが全て無駄だったように思えて……何もかも、嫌になった。ミカに無事で良かったと言われたけど、本当に良かったのか——」


 零れ落ちていく。

 情けない言葉が。

 不甲斐ない本音が。


「……俺の人生は、全くの無意味なんじゃないか、と」


 こうして口に出すということは、認めてしまうのと同じことだ。

 今、俺の手の中には何一つ残っていないのだと。

 空っぽだった。生きているという実感さえも。

 無様で、惨めに違いないのに、そのことすらどうでもいいと思えるほどに。


 当然、それが言い訳にはならないことは分かっていた。酷い目に遭わせた相手にこんな泣き言を聞かせるなんて、俺はどこまで救いようのないクズなのだろう。

 唇を噛み、息を吐く。


「でも、だからってあんなこと、すべきじゃなかった。本当にすまなかった」


 膝の上で拳を握り、深く深く頭を下げる。

 こんな身勝手なこと、許してもらえるはずもないだろう。自業自得だ。


 幾ばくかの間の後、ミカが言った。


「……顔、上げてよ」


 視線を落としたまま、頭を持ち上げる。

 ミカが俺の目を覗き込んできた。慈しむような眼差しに捉えられ、一足跳びに心拍数が上がる。

 細い指がこちらに伸ばされ、俺の髪をそっと撫でた。

 くすぐったくて、気持ち良い。でも、どうして——

 心の弱い部分が、より一層締め付けられる。

 どうしてミカは、こんな俺を受け入れてくれるのだろう。


 かすかな弧を描く紅い唇が小さく動き、俺に優しく囁き掛ける。


「ジンさんのこと、残念だったね。事情はよく分かった。でも——」


 髪に触れていた温もりが離れ、ミカの顔から笑みが消えた。


「甘ったれんな」


 強い視線に射すくめられ、どこか浮ついていた心臓が一瞬鼓動を止める。


「生きる目標だって? はぁ?」


 怒りを孕んだ声が、脳髄に鋭く突き刺さる。


「生きる目標なんて、そんなのあたしだって分かんない。父親からわざを絶やすなって言われてずっとここで薬草師してるけど、それが意味のあることなのか、未だに全然分かんないんだよ」


 ミカは一息ついて、さらに俺を睨み付ける。


「だけど、それでも生きてるよ。生きることを諦めたら、今までやってきたことが本当に無駄になるからね。本当に人生が無意味なものになっちゃうからね。生きるしかないから、みっともなく生きてるよ。悪いか」


 竃の中で燃え尽きて炭になった木切れが、ぱちりとぜる音がした。


「目標がなかったら生きられない? 何もかも嫌になった? じゃあ、なんでボロボロになりながらわざわざ戻ってきたの。ご丁寧に、あの花握り締めてさ」


 全てを見失った後も、無心で足を動かし続けた。

 ただ、胸に巣食ったあのざわめきだけを頼りにして。


「生きたかったんでしょ。だから、ここに戻ってきたんでしょ」


 あの時、ミカのいる風景だけが、鮮やかに色付いて見えたのだ。


「だったら、自分の人生に責任持ちな。ヤケクソになんないで。自分でめちゃくちゃにしないで。あの花、まだ咲いてるよ」


 黒曜石のような瞳が揺れる。そこに映る俺の姿も。


「あたし、ちゃんと育ててるよ。あんたが作ったルリヨモギギクの花」


 ミカの言葉の一つひとつが、身体の奥深くまで沁み入っていく。渇ききってひび割れた大地に降り注ぐ、恵みの雨のように。

 それは涙となって、俺の目から零れ落ちた。


 ミカがわずかに口元を緩める。


「……言い忘れてたことがあった」


 瑞々しい唇が、心地よく耳朶を打つアルトの声を紡ぎ出す。


「おかえり」


 東の窓から朝陽が射し込んできて、ごく淡く微笑むミカの頬の輪郭を浮かび上がらせる。

 その姿はまるで——


 熱に浮かされたように見惚れながら、俺はようやく口を開く。


「……ただいま」


——まるで、希望の光だ。


 ミカが一つ息をつき、顔を背けた。俺に見えない角度で、目元を拭っている。

 そして、結った髪の根元に手をやりながら、どこか軽い口調で言った。


「悪いけど、あんたのことを許すわけにはいかないよ。全くふざけてる。罰として、あたしの仕事を手伝うこと。その働きによっては考えてやらないでもない。どうせ、やることなくて暇でしょ? こっちは男手がなくて困ってんの」

「あ、あぁ……もちろん」


 つい、そんな返事をしていた。相変わらずの酷い言い草だ。

 でも、俺は知っていた。ミカは敢えてこういう言い方をするのだと。


 唐突に空腹感を思い出す。


「あの……いただきます」


 遅ればせながらにそう告げて、俺は残りの朝食をあっという間に平らげた。

 俺の正面に戻ったミカと、今度は声を合わせて唱える。


「ごちそうさまでした」


 その瞬間、どこか懐かしいような温かさを身体じゅうに感じた。


 ようやく気付いた。

 胸のざわめきの正体に。

 俺はきっと、ミカに会いたかったのだ。

 ミカに会いたくて、ここに戻ってきたのだ。

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