第4章 三日月を抱く遥かな宙
▶︎ トワ
4ー1 その事実に手が届く時
地球に落とされてから数ヶ月。
ここまで生き永らえることができたのは、どう考えてもミカのおかげだった。ルリヨモギギクの栽培と効果の確認にも手を貸してもらい、どれほど感謝してもしきれない。
ミカは小柄で華奢な体格に似合わず、活動的でさばけた性格の人だった。同時にどこか飄々としていて、何となく掴み所のない女性でもあった。
一見無垢な印象を受ける可憐な面差しに、時おり浮かぶ不敵な笑み。ミカの中には、天真爛漫な少女性と世間擦れした老練さが絶妙なバランスで同居していた。薬草に関して深い知識を持ち、さまざまな道具を駆使してあらゆる薬を作り出すその横顔は、さながら不老不死の賢者のようにも見えた。
村の
出発前夜、ミカから掛けられた言葉に俺は酷く動揺した。
結局
ほんの一瞬でも心を乱してしまったことが、思いの外ショックだった。ざわめく気持ちをどうにか律して、俺は前を向いた。
ミカに別れを告げた俺は、方位磁針を頼りに西へと向かい、『砂漠の国』を目指した。
まずは山を越える必要がある。険しい地形だが、シャクヤクの手入れで何度か訪れていたため、知った道だった。
頂を越えて下山するのに丸一日を費やした。標高が下がるにつれて、徐々に背の高い樹木が姿を消していくのが分かった。
気候帯が変わったのだ。ここも雨季が終わったばかりらしい。白っぽい大地のあちこちに、大人の腰の高さ程度のイネ科の植物が自生していた。
俺は自分が開発した小麦のことを思い出した。『追放者』の荷物に入れた種籾は、どこかで根付いているのだろうか。
あの計画が始まってから俺が捕まるまでの二年間で執行された追放刑は、計八回。正直コロニーにいた頃は、それだけ送れば一人くらい栽培に成功する罪人がいるのではないかと淡い期待を抱いていた。
しかし実際にこの大地を目にした今、それが絶望的に低い確率であることを俺は実感している。
何しろ、人がいないのだ。ところどころに瓦礫と化した旧時代の建物はあったが、当然ながら人が暮らせるような代物ではない。
あれだけの取り調べを受けて心身ともに疲弊した末、死刑にも等しい追放刑に処された者が、なおも地球で生き抜こうと強く意思を持つのは難しいかもしれない。
加えて、与えられた水と食糧はごくわずかだった。
俺がこの星に落とされてから約二日でミカの家に辿り着いたのは、とんでもない僥倖だったのだろう。例えジンさんを探すという生きる目的があったとはいえ。
太陽の出ている昼間に歩き、日没後から夜が明けるまでは休んで体力を回復させる。
道中、傾いた鉄塔や折れ曲がった
蜃気楼のように揺れる高層ビル群の残骸を遠くから眺めた。
橋はどれも崩れ落ちていたが、乾季のためか川幅が狭く、対岸まで歩いて渡ることができた。
月面のクレーターにも似た、とてつもなく大きな窪みを見つけた。これが地球史の授業で学んだ『原子炉爆発』の跡地だろう。
途中、『海』と見紛うほどの巨大な湖に差し掛かった。
何か食べられそうな生物がいないかと岸に寄ってみたが、水は赤っぽく澱んでおり、酷い腐臭がした。
その後もあちこちで食べられる野草を探したり、保存食を少しずつ口に入れてどうにか腹を持たせていたが、次第に空腹が当たり前の状態になっていく。
川に行き着くたびに水を汲んでは煮沸し、飲み水を作った。
水辺は思った以上に蚊が多い。だが、乾燥させたルリヨモギギクのおかげで刺されることはなかった。眠る時は念のため香も焚いた。
夜は寝袋に包まりながらずっと月を眺めていた。
月は日ごとに欠けていく。日ごとに、光が弱くなる。
昼間の日差しの強さからは一転、夜はやけに冷え込む。無性に人肌が恋しかった。
ルリは元気にしているだろうか。
幸せに暮らしてほしいと願いつつ、完全に忘れ去られたら少し寂しいと思うのは俺のエゴか。
会いたい。もしここにルリがいたら、この胸にきつく抱き締めて、二度と離しはしないのに。
恐ろしく虚しい妄想だった。
ルリが託してくれた種子を、ジンさんに届ける。それだけが、俺を導く希望の光だった。
出発から八日ほどが経った頃、辺りに強風が吹き始めた。
乾いた空気を掻き回す風が大量の砂埃を運んでくる。ジンさんから聞いていた通り、まるで砂の嵐だ。
俺は瓦礫の陰に身を寄せ、予め準備していたゴーグルとマスクで顔を覆って、砂嵐が収まるのを待った。風の止んだ隙に少しずつ足を進めていく。
夜間は眠り込んでいるうちに砂に埋まってしまうのではないかと、気が気ではなかった。
そうして嵐の中を数日間じりじりと進んだ末に、俺はようやく一軒の家に辿り着いた。既に食糧は底を尽き、わずかな水を残すばかりになっていた。
旧時代の鉄骨を利用しているらしい小さな家。すぐ隣には柵の囲いと戸締まりされた納屋。何か家畜でも飼育しているのだろうか。動物の姿は見えないので、納屋の中に入れられているのかもしれない。
その家の玄関に立ち、扉をノックする。顔を覗かせたのは、一人の少女だった。
俺は東から山を越えてはるばる旅してきたことを説明し、どうにか家に入れてもらった。
この家には、今年十二歳になるというヤコという少女と、彼女の祖父だけが住んでいるようだった。
簡素なテーブルに差し向かいで座ったヤコは、軽く首を傾げながら言った。
「今キャラバンは、コウさんっていう人が一人で回ってますよ」
「え……?」
「ジンさんのことはあんまり覚えてないけど、あたしとおんなじくらいの子供がいるって聞きました」
「……ジンさんは今キャラバンに参加してないってことなのかな。瓦礫の街で暮らしてるんだろうか」
「え? そんな話は聞いたことないけど……ちょっと待っててください」
奥の部屋へと消えていったヤコは、しばらくすると車椅子の祖父を伴って戻ってきた。
その老人の姿を目にした俺は、思わず言葉を失った。
彼の顔の右半分は布で覆い隠されており、隙間から覗く皮膚は醜く爛れている。袖口から見える右手は、不自然な形に腫れ上がっていた。視力を失っているのか、目の焦点は虚空に漂ったままだ。
末期のヒルコ症だと、直感的に理解した。
老人は喋ることすら辛そうな様子で口を開く。
「ジンさんは、五年前、月へ行く最後のシャトルに、乗っていったっきりじゃ……ヒルコ症の、薬を求めてな」
「……俺は五年前、月のコロニーでジンさんに出会いました。ジンさんは特効薬を持って、『追放者』の
ゆっくりとした首肯が返ってくる。
「そんな……」
外を吹き荒れる風の音がにわかに強さを増す。嵐に運ばれてくる無数の砂粒のヴィジョンが、頭の中にノイズを作り出す。
急に目の前が真っ暗になったような気がした。
その日はヤコの家に泊めてもらうことになった。
祖父の介護をするヤコを手伝いつつ、ぽつぽつと話をした。
普段は山羊を飼育して、その乳やチーズを交換材料にキャラバンから食糧や生活物資を入手していること。
両親は共にヒルコ症で命を落としたこと。身寄りは祖父しかいないこと。
今年は雨季がいつもより早く終わったせいで乾季を越すための備蓄が心配だと、浮かない顔でヤコは言った。
この家にあまり長く留まっては迷惑になると、俺は判断した。
「ここから瓦礫の街へはどうやって行ったらいい?」
「えっ……歩いて行くのはたぶん無理ですよ。この時期は砂嵐が酷いし……車で真っ直ぐ行っても三日くらい掛かるんじゃないかな」
「車で三日ということは、徒歩では十日ほどかな」
「そんなの、絶対無茶だってば」
そうは言われても、俺にはもうそれしか残されていないのだ。ジンさんの家族に会って、彼の意思を伝えることくらいしか。
ナギとナミという名前の双子。確か、今は十歳くらいになっているはずだ。
その時、俺はふと思い立ち、荷物からルリヨモギギクの種子を取り出した。
「そうだ。この種、一度育ててみてくれないかな」
育て方と効能や毒性、使用方法を説明し、半分をヤコに手渡した。
ほんの少しだけでもいい。俺のやってきたことが、この地球に住む誰かの役に立つのなら、と。
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