3ー9 触れられぬ心

 どんなに美しい花でも、いつかは枯れる時が来る。

 だったらいっそ、盛りの時に潔く刈り取ってしまえばいい。薬草だろうと毒草だろうと同じこと。

 誰からも見られることのない雑草だったら、なおさらそう言える。なぜなら、花を付けるということ以外に取り柄がないからだ。

 あたしはずっと、刈り取られる日を待っていた。


 ■


 あたしたちは、あれからまた何度か大胆に蚊に刺されては、そのたびにルリヨモギギクの蕾から作った駆虫薬を試した。はたから見たら正気の沙汰じゃなかっただろう。

 何度目かの服用から数日後のある時、トワの虫刺されの一ヶ所が腫れて傷口が破れ、大量の膿が出てくるということがあった。

 トワ自身は多少の発熱があったものの、やがて傷は塞がり、腫れも引いて元通りに快復した。


「これは死んだヒルコリア幼虫が排出されたってことかな。あたしの父親が発症した時は、そのまま腫れが拡がっていったからさ」

「恐らく。仮に再発したとしても、ジンさんが特効薬を持ってるはずだから、それを頼りにするよ。感染したのが俺で良かった」


 だったら、あたしが感染すれば良かった。それならトワはあたしを気に掛けてくれただろうから。

 だけどもちろんそんなこと、不謹慎すぎてとても口にはできなかった。


 花の効果が確認できたということは、別れの日が近づいたということに他ならない。

 あたしたちはルリヨモギギクの世話と並行して、トワの旅支度も少しずつ進めていた。


 思いのほか時間が掛かったのは、約半月分もの食糧の確保だ。

 カグさまにもお願いして、梅やブドウの果実、トウモロコシや大麦なんかの穀類を、いつもより多めに分けてもらった。

 梅の実は塩漬けして梅干しにし、ブドウとトウモロコシは天日干しして乾燥させ、大麦は押し潰したものをフライパンでこんがり焼いて、それぞれ持ち運びしやすい保存食に加工した。


 旅立ちのための準備が全て整った頃には雨季も終わり、季節は秋に入っていた。



 トワが出発する前日の夜。あたしは何となく寝付けずに、表の部屋を覗いた。

 普段は寝袋で眠っているトワの姿が見えなかった。たぶん、夜風にでも当たっているんだろう。


 あたしはランプを片手に、そうっと玄関の扉を開いた。途端、温い風と虫の音が滑り込んでくる。

 トワは家の正面の庭で、こっちに背を向けて座っていた。

 この日は満月だった。空の高い位置で煌々と光を放つそれを、トワはぼんやり見上げていたんだ。


 あたしは庭に出て、声を掛けた。


「また蚊に刺されるよ。花の近くとはいえさ」


 そう言って、トワのすぐ横に腰を下ろした。


「まだ眠らないの?」

「もう少ししたら寝るよ」

「そっか」


 二人して黙り込んだ。近くでスズムシが鳴いていた。

 あたしは後ろで一つにまとめたおさげ髪の根元に軽く触れてから、静かに口を開いた。


「……いよいよだね」

「……いよいよだな」

「本当に行っちゃうんだ」

「あぁ」

「その後はどうするの?」


 一瞬の間。


「まだはっきりとは決めてないんだが……向こうに住むかもしれないし、どうせならあちこち旅してみるかな」

「そっか」

「ミカには、長いこと本当に世話になった」

「割とあっという間だったよ。意外と楽しかった」

「それなら良かった」


 互いに軽い笑みを含んだ声。

 肩を並べて正面を向いたまま言葉を交わしていると、まるで二人して別々に独り言を言っているみたいだった。


 また、沈黙が訪れた。あたしはほんの少しだけ顔を動かして、こっそり隣を窺った。

 どこか遠くを眺めるトワの横顔。ゆらゆら揺れるランプの灯が、存在感のある喉仏や鋭角な顎の線を照らし出していた。

 りーん、りーんと、相も変わらず虫たちは騒ぎ立てている。

 穏やかな風がゆるりと吹き抜けて、ルリヨモギギクの匂いが不意に濃くなる。


 意図もせず、きゅっと胸が苦しくなった。

 あたしによく似た誰かの声が、あたしの唇から滑り出た。


「ねぇ、キスしよっか」


 それは、何でもないような口調だった。

 トワは一度まばたきしてから、あたしの顔を見た。

 やっと、あたしを見た。

 そのまましばらく、無言のままで見つめ合う。頭の奥が痺れていた。


「いや……あの……」


 トワが口ごもりながら視線をあちこち泳がせた。

 あたしは急に正気に戻った。さぁっと波が引くように。明け方の夢から醒めるように。


「冗談だよ」


 そう言って、すっと目を細めてにぃっと唇の端を持ち上げた。

 トワは小さく眉根を寄せて、目元を隠すようにして片手で額を押さえた。頬が紅く染まっている気がするのは、きっとランプのせいじゃない。

 それがおかしくて、あたしはくすくす笑った。


「だってトワ、いるんでしょ、誰か」


 トワの動きがぴたりと止まった。


「……なぜ?」

「なぜって、あんたいつもシケた顔して月を眺めてるからさ」

「酷い言い草だな、それ」


 否定も肯定もしない、どこか自嘲めいた声。

 やっぱりね、と思った。

 トワの心にあたしが入り込む余地なんて、初めから存在しなかった。

 そういうことなら仕方ない。

 どうせ、明日には行ってしまう人なんだ。


 よっ、と小さな掛け声と共に立ち上がって、尻の土を払いながらあたしは言った。


「ま、どうしても行くとこなかったら、またここに戻ってきてもいいよ。もちろん、嫌じゃなければだけど」


 あくまでも、軽い調子で。

 でも、なんて未練たらしい。


「それじゃ悪いけど、あたしはそろそろ寝るわ。あんたも早く寝なよ」

「……あぁ、おやすみ」


 トワの肩をぽんと叩いて、あたしは家に戻った。



 翌朝、トワは旅立っていった。最後に握手を交わして、笑い合った。

 元気で。気を付けて。そんな月並みな言葉で、あたしは元同居人を見送った。


 これで良かった。これ以上を、高望みしなくて良かった。幸い、諦めることには慣れている。

 彼はただの、期間限定の同居人だったんだから。

 この先も一人の日常は容赦なく続いていくんだから。

 薬草師の仕事が好きだと気付けた。それだけできっと、十分なはずだ。

 明日からも、生きていけるはずだ。


 あたしはトワの背中が見えなくなるまで、大きく大きく手を振り続けた。

 庭先に植えたルリヨモギギクの花が香っていた。

 きっとこれからこの匂いを嗅ぐたびに、あたしはトワのことを思い出す。そう思ったら胸が苦しくて、じわりと目の前が滲んだ。



 ■ ■ ■



 お母さんは時々咳き込みながら、そのトワという人のことをぽつぽつと話していた。


 あたしの知るお母さんは、いつも明るく前向きで、決して笑顔を絶やさない人だった。

 だからそんな風に、あたしと同じように毎日にうんざりしていたなんて、すぐには信じられなかった。

 その人との出会いがお母さんを変えたということなのかもしれない。


 一緒に話を聞いていたナギさんが、そっと口を開いた。


「あの……トワさんは、その後どこへ行ったんですか? 僕の父は、地球に戻ってくる途中で事故に遭って命を落としました。父が故郷に帰ってないことを、トワさんはどこかで知ったはずです」

「うん……そうだね。その時は、きっと辛かったと思うよ」


 お母さんが視線を落として、呟くように言った。


 トワさんは、ナギさんのお父さんと会うことを願って旅立った。

 全てを失くして月から追放されたトワさんにとっては、それだけが生きるための目標だったんじゃないだろうか。それなのに、もう再会はかなわないと知ってしまったら——


「お母さん、あたしも知りたい。トワさんは、今どこにいるの?」


 あたしが尋ねると、お母さんは顔を上げ、ほんの小さく微笑んでから、続きを話し始めた。


 その結末は——あたしにとっては、思ってもみないことだったんだ。




—第3章 の花咲く闇・了—

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