4ー2 見失った方位を知らず
翌朝、少しの水と食糧を分けてもらい、俺はヤコの家を出発した。
砂嵐はますます勢いを増し、ほんの数メートルの先すらも霞むほどの視界不良だった。
再び方位磁針を頼りに、教えてもらった南東の方角を目指す。
昼の間に動けるだけ動き、寝床を探した。幸い、叩き付けるような砂を避けられるだけの場所なら割とすぐに見つかった。
だが、夜間も瓦礫の隙間を吹き抜ける風の音が神経に障り、熟睡することなど到底かなわなかった。
ヤコの家を後にした翌日の昼。俺は最悪の不運に見舞われた。
それは方位磁針を手に方角を確認していた時に起こった。
束の間の無風状態から一転、ひときわ強い突風が吹き付けてきたのだ。それに煽られた俺は
ふと気付けば——手の中にあったはずの方位磁針が消えていた。
俺は慌てて辺りを探した。しかし絶え間なく暴れ続ける砂嵐の中で、どうしてもそれを見つけ出すことができなかった。
しばらくの間、俺はただ呆然とへたり込んでいた。
方位磁針を失くした今、頼りになるのは太陽の位置だけだ。だがそれも砂の弾幕に遮られ、はっきりとは視認できない。ぐるりと一周見回したところで、もはや前後左右すらも不覚になった。
それでも、前に進む以外の選択肢はない。
俺はわずかに見える影の角度から当たりを付け、南東と思しき方角へと歩き始めた。
重い足を引きずるように、のろのろと旅を続ける。さらに三日が経過し、水と食糧が尽きた。疲労が蓄積し、心身ともに限界が迫っていた。
そんな折、唐突に砂嵐が止んだ。久々に風のない大地を進んでいくと、前方に岸があることに気付く。
さぁっと血の気が引いた。まさか——
嫌な予感を振り切るために、あるいはそれを確かめるために、足を速めた。
徐々に、水面が見えてくる。
澱んだ赤色に染まった湖水。鼻の曲がるほどの悪臭。
間違いない。往路でも差し掛かった巨大な湖だ。
何ということだろうか。俺は戻ってきてしまったのだ。
その場でがくりと崩折れた。ここからまた瓦礫の街を目指すのは、もはや不可能だ。
はたして、俺はどうしたらいいのだろう。
思考停止したまま、当て
防塵マスクで鼻と口を覆って腐臭に耐えながら、それに近づいていく。
沈みゆく陽光を弾く、見覚えのあるその銀色の物体に、俺は目を見張った。
それは『追放者』の脱出ポッドだった。
心臓が騒いでいた。開きっ放しのハッチから中を覗く。当然ながらもぬけの殻だ。
内部に入り込み、椅子の足元にある物入れの蓋を開けると、なんと荷物がそのまま残されていた。
ナイロン製のリュックには、俺の荷物にもあった水や食糧などの他に、小麦の種籾の詰まった袋が入っている。
その中には、ルリヨモギギクの小袋。
これは、あの二年の間にコロニーから追放された罪人のポッドなのだ。
俺がジンさんに宛てて書いた手紙もそのままだった。日付けは二年前。俺がまだ、地球に根付いた小麦畑とルリヨモギギクの風景を夢想していた頃だ。
脳が直接的に圧迫されるような、酷いストレスを感じた。
ある程度予想していた事態とはいえ、こうして種子が放置されているのを目の当たりにすると、さすがにショックだった。これに乗ってきた人は、荷物も持たずにどこへ行ってしまったのだろう。
ポッドから這い出て、岸伝いに歩く。すると程なくしてそれは見つかった。
完全に白骨化した、人間の死体。
経年によってぼろぼろに劣化した服は化繊のジャージに見える。だとすれば、間違いなくコロニーの人間だ。
恐らく、この人物は地球へ落とされた直後に
自分で組み上げた答えに納得する一方で、胸を締め付けるような息苦しさが思考を支配していく。
これはジンさんじゃない。見も知らないコロニーの罪人だ。
しかし脳裏には、どこかで白骨死体となったジンさんの姿が浮かんでくる。
求めていた特効薬を入手し、家族との再会を切望しながらも、二度と故郷の土を踏むことのなかった男の姿が。
——家に、帰れるんだ……
地球へ戻れることを告げた時に、声を震わせながら呟いたジンさん。
——ジンさん、無事にご家族に会えるかしら。
彼を見送りながら、目に涙を滲ませて言ったルリ。
俺とて、ジンさんが家族と再会することを心から願っていた。純粋な愛情で結ばれた絆が再び彼らを引き寄せ合うことを、夢のように思い描いていた。
ジンさんの、くしゃりとした人好きのする笑顔を思い出す。
ルリの、温かくしなやかな指先の感触を思い出す。
不意に、喉の奥が詰まった。
ジンさん、いったいどこで何をしてるんですか。
奥さんの病気を治すんじゃなかったんですか。子供たちを抱き締めるんじゃなかったんですか。
ジンさん、もう一度会いたいです。話したいことが山ほどあるんです。
ジンさん——……
どれほど問い掛けても、返答はない。
呼吸が苦しい。堪えきれず、嗚咽が漏れた。
涙は出なかった。それは水分が足りないせいなのか、あるいはあの時の記憶が涙となって流れ落ちてしまうことを身体が拒んでいるせいなのか。
一条の光も見えない暗闇に突き落とされたような気分だった。
俺はこの先、何を目指して歩けばいい?
……分からない。もう、何も分からない。
気付けばすっかり陽は暮れていた。夜の帳が降りると共に、音もなく月が姿を現わす。
夕焼けの抜けた空に掛かる淡い三日月が、ただ静かに俺を見下ろしていた。
夜が明けるのを待って、脱出ポッドに残されていたリュックから水と固形食糧を取り出し、自分の荷物に入れた。
小麦とルリヨモギギクの種子はそのまま残しておいた。今ならよく分かる。例えたったの五百グラムでも、すぐに食べられないものは重荷でしかない。
それからのことはあまり覚えていない。元来た道を戻るように、東へ向かってただひたすらに足を進めた。
乾いた大地に、枯れかけた草木。色彩に乏しい世界の中で耳に届くのは、自分の足音と耳元を掠める風の音だけだ。
いつ野垂れ死のうと、もうどうでもいい。
そう思いながらも水で唇を湿らせ、固形食糧や野草を齧っては、惰性で旅を続けた。
夜が来ればルリヨモギギクの香を焚いて泥のように眠り、陽が昇ればふらふらと歩き出す。
もはや何が俺を動かしているのか分からなかった。
——どうしても行くとこなかったら、またここに戻ってきてもいいよ。
ミカの言葉を当てにしているつもりはなかった。
ただ、ルリヨモギギクの香りを嗅ぐと思い出すのだ。あの夜、ミカによってもたらされた胸のざわめきを。
今や俺にとって、それがただ一つの確かなものだった。
辺りに低木の姿が見え始めてからは、緩やかな登り坂が延々続く。俺は干からびたルリヨモギギクを手にしたまま、適当に拾った木切れを杖にして、棒のようになった脚をただただ動かしていた。
そうしてまたいくつかの昼夜が過ぎた。やがて勾配は急になり、周囲の景色に背の高い樹木が増えてきた。気候帯の境目だ。
険しい山道を無心で登り、頂を越え、シャクヤク畑を横目にしながら今度は坂を下りていく。剥き出しの、荒れた山肌がしばらく続いた。
丘の上に立つ電波塔が目に入る。それは今日も天辺付近で陽光を弾いている。
村へと続く川。その流れとは逆方向に、川沿いを上っていく。
そして俺はついに、あの森の入り口まで行き着いた。
鬱蒼と生い茂る木々を縫うように進むと、ミカの家の庭が見えてくる。
視界が開けた瞬間、背後から夕陽が射し込んできた。
くすんだ木の壁が茜色の光に照らし出される。
手前の庭で栽培されているハーブや薬草が、不意に駆け抜けていった風に揺れる。
胸を騒がせるあの香りが、鼻先を掠めていく。
ルリヨモギギクはまだ、美しい青色の花を咲かせている。
その風景の中に、ミカがいた。
一つに結った三つ編みの長い髪。小柄で華奢な後ろ姿。
足音に気付いたミカが、ゆっくりこちらを振り返る。
「……トワ?」
心地よいアルトの声。それを耳にした途端、張り詰めていた神経が一気に緩んだ。
がくりと膝が折れ、景色が傾く。
「トワ!」
駆け寄ってくるミカの叫び声を聞きながら、俺はとうとう気を失った。
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