1ー12 二度目の旅立ち
みんなが待ち望んでいた雨季がやってきた。
僕とコウは、ひやりとした廊下の壁に身を預けながら、時が経つのを待っていた。
辺りに漂う埃の匂いは妙に湿っぽい。ひたすら降り続ける雨の音がやけに大きく響いている。
薄い扉一枚隔てた部屋の中から、時おり身を削るような叫び声が聞こえてくる。
そのたびコウはびくりと身を震わせ、落ち着かなげに短い廊下を右往左往したり、眉根を寄せて溜め息をついたりしていた。
「あのさ、うろうろしても仕方ないんだから、じっとしてたら?」
「あ……あぁ、そうだな」
見かねて声を掛けると、コウは頭を掻いて僕の隣にやってきた。そして崩れるように座り込み、懐から取り出したお守りをぎゅっと握り締める。落ち着き払った普段の様子からすると、ちょっとおかしいくらいの動揺ぶりだ。
コウはひときわ深い息と共に、吐き出すように言う。
「駄目だな……こんな時、祈ることしかできない。アヤがあんなに苦しんでるのに、気休めくらいにしか……いや、気休めにもならない」
気休め、か。
コウに付き合って腰を下ろし、扉の向こうのアヤの様子を想像して、僕はぽつりと言う。
「そうでもないと思うよ」
「……と言うと?」
「いや……ほら、助産婦さんとお手伝いの人も二人ついてるし、ナミもいるから」
「あぁ……なんか情けないな、俺」
「でも、出産に間に合って良かったんじゃないの?」
「まぁ……そうだな」
気休め程度に、二人で軽く笑い合う。
ふと、少し気になっていたことを思い出した。
「そうだ、一つ訊いていい?」
「何だい?」
「父さんのこと、どうしてすぐに教えてくれなかったの?」
コウは少しだけ視線を泳がせて、また頭を掻いた。
「いや……どうも君がジンさんのことを誤解してるような気がして……いつ、どうやって切り出すべきか迷ってたんだ。それでもう、あそこまで行ったら直接見てもらった方が話が早いかなと」
「へぇ……」
コウが父さんの名前を出したときに妙な間があったのは、そういうことだったのか。
つまり僕たちは、二人して互いに距離を計りかねていたのだ。
「なんか、コウってさ、思ってたより普通の人なんだね」
「……俺を何だと思ってたんだ」
「……内緒」
ふふ、と含み笑いすると、軽く頭を小突かれた。
あれほど苦手だと思っていた相手なのに、今となっては驚くほど気安い。
それからまたいくらかの間があり、何度目かの叫びを聞いた後、女たちの歓声に紛れて、ついに赤ん坊の産声が耳に届いた。
二人で顔を見合わせるのと同時に、扉が開かれる。涙目のナミに促され、部屋の中へと入った。
壁際のベッドの上、アヤの腕の中には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれている。そこへコウが駆け寄っていく。
僕とナミはお互いに手を取って、新しい命の誕生を喜び合ったのだった。
■
初めての巡行が終わり、打ち捨てられた脱出ポッドから父さんの遺体を持ち帰った僕は、ナミと共にそれを埋葬した。
父さんは今、家族で暮らしていた家の庭の、母さんの隣で静かに眠っている。
あれから僕とナミで、ヒルコ症の特効薬を病人の家に届けて回った。
父さんが月で入手したものだということを伝えると、なぜかみんな僕たちの手を握ってありがたがってくるので、そのたび何だか尻の座りの悪い気分になった。
雨の降りしきる中、僕たちは両親の墓石の前に立っていた。
大粒の雫が、ぱたぱたと合羽のフードを叩いている。
「あの時のナミの占い、当たってたよ」
「いつの?」
「月の正位置、塔の逆位置、太陽の正位置」
「出発前ね」
今までは、行く先も分からなかった。
だけど、僕の中で何かが大きく変わった。
そしてきっと、未来は強い光に満ち溢れている。
「たぶん、父さんが導いてくれたのよ」
「……ねぇ、ナミは知ってたの? 父さんが月に行った理由」
「うーん、はっきりとは覚えてないけど、父さんに言われた気がするの。『母さんを治す薬を探してくる』って」
「え……そうだった?」
「ナギ、あの時ずっと泣き喚いてて、父さんの話を全然聞いてなかったじゃないの」
「あぁ、うん……」
どうやら勘違いしていたのは僕一人だったようだ。
それでも、父さんが無事に月から戻ってくるのは難しいことだと、誰もが思っていたのではないだろうか。そう考えれば、大人たちの態度も腑に落ちる。
「……何にしても、完全に許したわけじゃないんだ、父さんのこと」
「どうして?」
「だって結局、母さんを救うことはできなかったじゃないか。そもそも、父さんがシャトルに乗った時点で母さんの病気はかなり進行してた。仮に生きて戻ってこられたとしても、間に合ったかどうか分からないよ。だったらやっぱり、母さんのためにも最後は側にいるべきだったと思うんだ」
「うん、そうかもね。でもきっと、何かせずにはいられなかったんじゃないかしら。あれだけキャラバンで外を飛び回っていた人だもの」
「そうかな」
「そうよ。ナギは父さんにそっくりだわ」
「え?」
驚いて顔を向けると、意味ありげな微笑みを浮かべたナミと目が合う。
僕は眉根を寄せつつも、何となくこの前の巡行で出会った人たちの顔を思い出していた。
「……ナミ、思ったんだけどさ。薬があるうちはいいけど、なくなったらどうしよう。たくさんあるとは言え、数には限りがあるからさ。月に行く手段はもうないわけだし」
「そうね。そもそも、感染を防ぎきれないのが問題なのよね。特にこのくらいの季節は、どこもかしこも蚊だらけだもの」
「蚊よけの香をしっかり焚くしかないか」
「タチジャコウソウも元気になってきたしね。そうやって、できる限り防いでいくしかないわ。もっと花の株を増やしましょう」
季節が巡れば、命も巡る。こうして僕たちは生きている。
「それにしても、あの種はやっぱりうまく育たなかったな」
僕はヤコからもらった種をプランターの土にいくらか蒔いていた。だけど話に聞いた通り、芽が出てもすぐに枯れてしまったのだ。
「雨季なのに育たなかったってことは、土が合わないのかしら」
「そうかもね。『火山の国』の植物みたいだから」
そもそもヤコはなぜ、旅人が持ってきたというこの種を僕にくれたのだろうか。今度会ったら訊いてみなくては。
背後から、しゃん、と音がした。振り返るとコウが立っている。
「ナギ、そろそろ行こう」
「分かった」
キャラバンが同じ場所に留まっていられる時間は短い。帰ってきてから一週間ほどしか経っていないけど、もう次の巡行に出発しなければならない。
「行ってらっしゃい。月のご加護を」
「行ってきます。太陽のご加護を」
僕とナミの手首には、揃いの赤い
これがただの気休めだなんて、もう思わない。
誰かの無事を祈ること。
明るい未来を願うこと。
その気持ちがきっと、人の生きる力になっている。
ものが循環し、人と人とが繋がって。
その
この街に暮らす人々に、希望の光が必要ならば。
僕たちが『神の化身』として生きる意味は、確かにあるのだ。
——行ってきます、父さん、母さん。
ゆるりと風が吹き抜けていく。
僕は
そしてまた、キャラバンは旅立つ。
—第1章 凪を待つ砂の海・了—
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