3ー2 薬草師の母娘

 小高い丘の上の花畑から続く、そこそこ急な斜面を下っていく。この麓の森の中に、あたしの家はある。


 あたしがうんと小さかった頃、ここの木々は鬱蒼と生い茂っていた。

 だけど今や、そのほとんどが立ち枯れしてしまっている。噴煙の影響で酸の雨が降り、土が汚れて、森は死んでしまったんだ。

 それでも乾季が終わって春になれば、たくましい雑草が地面を覆う。薬効を持った植物や食べられる山菜もいくつか生える。

 踏みならされた道の脇、朽ちた木の根の陰からも、山吹色の花がちらほらと顔を覗かせている。ヤマハハコグサだ。それを根本から摘み取りながら、あたしは家路を辿っていった。


 やがて、痩せた樹木の合間に家が見えてきた。手前の庭にはいくつものプランターが並んでいる。

 今は季節柄、若々しい緑が多い。

 シロハジカミにベニヒメハッカ、ごつごつしたセイタカアロエに、芽が出たばかりのロッカクヘチマ。可愛い薄ピンクの花を咲かせているのはモモカミツレだ。

 これらは全部、薬の材料になる。昔は直植えしていたみたいだけれど、今はそうもいかない。庭の土と腐葉土を合わせたものに石灰を多めに混ぜ込んで、酸の性質を弱めた土を作らないと、繊細なハーブは育たないんだ。

 ジャガイモなんかの食べられる野菜も少しは栽培しているけれど、このところの出来はいまいちだった。


 あたしはここで薬草師をしている。

 子供の頃からずっとお母さんの手伝いをしてきて、本格的に仕事を継いだのは一年ほど前。だから、まだまだ勉強中の身だ。



 玄関先で、服に付いた塵をぱんぱんと払い落とす。家の中に入るとすぐに帽子を脱いで、顔を覆っていたゴーグルと防塵マスクを外した。灰から身を守るためだと言っても、こうも完全防備ではさすがに息苦しい。


 寝室へ行って、二つ並んだベッドのうち、奥の方に横たわるお母さんに声を掛けた。


「お母さん、ただいま」


 目を覚ましていたお母さんは、顔だけこっちに向けて小さく微笑んだ。

 青白い頬。ほつれた髪。ずいぶん痩せ衰えてしまったけれど、それでもお母さんは綺麗だった。


「おかえり……サク」


 しゃがれた声がそう呼んだ、『サク』というのがあたしの名前だ。

 あたしは明るい顔を作って、さっき採ってきたばかりのものを見せた。


「今日はルリヨモギギクの花を刈ってきたの。森にヤマハハコグサも生えてたよ」

「もう、そんな季節なんだね。最近……あったかいと、思ってたよ」


 ところどころで喉を詰まらせて咳き込みながら、お母さんは言った。

 あまり家から出なくなったお母さんにとって、あたしが採ってくる植物は季節を知るための大切な目安だ。


「さっきね、『追放者』が空から落ちてくるのを見たの」

「え……?」

「たぶん湖に入ったと思う。あのほとりにカンゾウを採りに行かなきゃいけない時期なのに、ちょっと怖いなぁ」

「そう……」


 お母さんの反応は何だか冴えない。


 だけど、ぼんやりしていたその表情が、不意にはっと強張った。あたしもほとんど同じタイミングでそれに気付く。

 ゴゴゴ……と、ほんの小さくお腹に響くぐらいの地鳴り。

 それはすぐに収まったけれど、お母さんは難しい顔のままだ。


「……地震」

「うん、最近多い気がする。地震というか、地鳴りというか。昨日もあったよね」

「十五年前を、思い出すよ……」

「十五年前? 噴火の時のこと?」

「そう……あの時も、大地が騒いでた……」


 南の山が噴火した十五年前、あたしはまだ赤ちゃんだった。ここから西の方角にある大地溝だいちこうはその時にできたものらしい。

 以来、ここ『火山の国』では、今も絶えず火山灰が降っている。お母さんの肺の病気はそれが原因なんだ。


「そっか、何だかちょっと嫌な感じだね。これ以上に灰が増えなきゃいいけど」

「そう、だね……」

「そろそろお昼の時間だね。薬とスープを持ってくるから、少し待ってて」


 あたしは表の部屋に戻って、玄関から続きの土間に降りた。

 竃の側面の蓋を開け、そこに薪と藁を入れて、人差し指ぐらいの長さの金属の棒を擦り合わせて火を起こす。そして薬の粉末と綺麗な水を土瓶に入れて、竃の火にかけた。

 この薬は、何種類かの薬種やくしゅを粉砕したものだ。鎮咳ちんがい・去痰効果のあるカンゾウの根やヤマハハコグサの全草などを中心に、お母さんの症状に合わせて調合してある。

 土瓶の水が沸騰してから、砂時計で五分を計る。ついでに作り置きの雑穀スープも温めた。


 冷ました煎じ薬とスープを持ってまた寝室へ行き、ベッドの上でお母さんを助け起こす。


「薬、先に飲んでね」


 一口ずつゆっくりと薬を飲み終えたお母さんは、続いてスープを三口くらいすすると、すぐにスプーンを置いてしまった。


「もういいの? これだけで大丈夫?」

「うん、大丈夫……飲み込むのが、ちょっと辛くって」

「でも、食べないと良くならないよ」

「サクこそ、たくさん食べなきゃ……育ち盛りなんだから」

「駄目だよ、これはお母さんの分。ほら、あたしなら十分大きくなったよ」

「……もう、サクも一人前だもんね。薬も、上手に作れるようになって」


 みしり、と心が音を立てた気がした。だけど、あたしはできるだけ軽い口調で答えた。


「そんなことないよ。まだまだだよ」


 淡い笑みだけが返ってくる。結局もうお昼ごはんは終わりみたいだ。

 また手を貸して横たわらせると、お母さんはそのまますうっと瞼を閉じた。

 途端に胸の奥がしんと冷えて、重く沈んでいく。


「……おやすみなさい」


 あたしはベッドを離れて、そうっと扉を閉めた。

 小さく息をついて、その場にしゃがみ込む。そして自分にしか聞こえない声で呟いた。


「まだまだなんだよ……」


 喉が狭い。気を抜いたら今にも涙が零れそうで、あたしは慌てて両手で自分の頬を叩いた。


 このところ、お母さんが目を覚ましている時間がちょっとずつ減ってきていた。食事もあんまり摂っていない。

 大丈夫、とお母さんは言う。そんなはずがないことぐらい、薄々分かっていた。


 あたしは物心ついた時からお母さんと二人暮らしだ。

 父親の顔は知らない。村の誰かのはずだけれど、誰かは分からない。

 子供の頃、「どうしてうちにはお父さんがいないの」と、一度だけ尋ねたことがある。その時お母さんがとても哀しそうな顔をしたので、あたしはそれ以来その質問をしなくなった。


 村外れの暮らしは酷く孤独だ。一年前にお母さんが病気で倒れてから、特にそう思うようになった。

 細々と連なっていく日々。生きるためだけに生きている。それはきっと、死ぬまで続く。

 そんな人生でもどうにか生きようと思えるのは、お母さんがいるからだ。


 でももし、お母さんがいなくなってしまったら。


 その先のことを、あたしは上手く考えることができなかった。

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