3ー4 非日常の兆し

 集会の次の日は朝から天気が良くて、相変わらず風が強かった。

 午前中に家事やプランターの手入れを済ませたあたしは、昼過ぎになってから丘の上のルリヨモギギク畑に向かった。


 ルリヨモギギクはキクの仲間だ。茎の先で枝分かれして、小振りで丸い青色のボタンみたいな花をぽんぽんと咲かせる。

 元々の開花時期は雨季の間だけだったようだけれど、気温が高いせいなのか、毎年春先から秋にかけての長い期間咲き続ける。


 この花の胚珠には、ある二つの成分が含まれている。

 一つは強力な殺虫成分。そしてもう一つはヒルコリア糸状虫に対する駆虫成分だ。

 ルリヨモギギクは、他のどの植物にもない特徴を持つ貴重な花なんだ。


 そんなわけで、この植物には用途が多い。

 花の部分だけを刈り取って、乾燥させて粉末にしたものは、作物の害虫対策に使われている。

 粉末を水で練って作ったお香は、これからの季節の必需品だ。火を点けて部屋じゅうに煙を充満させておけば、入ってきた羽虫を一瞬で殺すことができる。

 駆虫薬は蕾を乾燥させて作る。蚊に刺された直後に服用すれば、例えヒルコ症に感染していたとしても発症を防げるんだ。

 だけど、お香さえしっかり焚いておけばそもそも大して刺されることもないので、花が開いてからの利用がほとんどだった。


 一方で、花以外の部分にはとても強い毒が含まれている。

 昔は村でも栽培しようとしていたみたいだけれど、間違って口にした家畜が中毒を起こして死ぬということがあったらしい。

 それからというもの、ルリヨモギギクの栽培はこの丘の上だけで行うようになったそうだ。



 丘の上に到着すると、あたしはすぐ花畑に分け入って作業を始めた。

 ポシェットからナイフを取り出して、ちょうど目の高さにある花を茎から切り離す。刈り取った花は背中の籠に入れた。


——サク、いい? 花は絶対に潰しちゃ駄目だよ。大事な成分が出てきちゃうからね。


 一人で作業をするには、あまりに広い花畑。いつも明るく元気だったお母さんのことを思い出して、不意に寂しくなる。


——ほら、泣きそうな時は顔上げて。泣いてもいいけど、顔上げて!


 はい、お母さん。

 息を吐いて、顔を上げる。

 相変わらずどっしりとそびえ立つ電波塔が視界に入る。その天辺で、灰を透かしてくる太陽の光がきらりと反射している。

 また空の高いところを鳥が飛んでいくのが見えた。


 もしも翼があったなら。

 そんな想像を、今までどれだけしただろう。

 どこか遠くに行きたくて、ふわりと宙に舞い上がるんだ。

 だけど、どっちへ向かって羽ばたいたらいいのか迷ってしまって、あたしはその場でぼうっと景色を眺めるばかり。

 そのうちに気付く。本当は行きたいところなんかないってことに。ただ、ここから逃げたいだけなんだってことに。

 そのたびいつも馬鹿みたいに打ちのめされる。もうとっくに思い知っていた。何をどうしたって、この現実は変わらない。

 嫌というほど分かっている。あたしはもう小さな子供じゃない。ちゃんと地面に足を着けなきゃならないんだって。


 青い花に目を戻す。手を動かすことに集中していれば、余計なことを考えずに済む。

 幸い、やることは山ほどあった。下を向いて立ち止まっている暇なんかない。

 花を切っては籠に放り、籠に放ってはまた花を切る。

 まだまだ、この青い花は咲き続ける。やってもやっても終わらない、そう思えるくらいに咲き続ける。


 昨日カグさまから提案されたことを、まだお母さんには言えていなかった。

 どうするにしても、ルリヨモギギクの花を刈り取る作業はずっと同じはずだ。そう考えたら、何だか妙に気持ちが落ち着いた。


 しばらく黙々と作業に集中していたあたしは、ゴゴゴ……という地鳴りの音にはっとした。

 じっとしていても感じるか感じないかぐらいの、ほんのかすかな振動。


——天気の変化に注意して。風をよく見て。大地の声を聴いて。


 手を止めて、南の火山の方へと視線を向ける。何だかやけに空が暗い。かと思えば、急に湿った風が吹き始める。

 次の瞬間、使い込んだ山羊革のグローブに、ぽつり、と雫の染みができた。

 しまった。庭のプランターにテントを掛けていないのに。あんまり雨に濡らすと土が台無しになってしまう。

 あたしは手早く道具を片付けると、大急ぎで家に向かった。



 雨はすぐに本降りとなった。

 荷物に入れていた合羽を羽織って、斜面を駆け下りていく。濡れた土をブーツの底でじゃりじゃり踏む感触が嫌な感じだ。

 さっきまでのぽかぽか陽気とは打って変わって、とても冷たい雨だった。身体の芯にまで寒さが伝わってきて、あたしはぶるりと身震いした。


 程なくして家が見えてくる。

 だけど坂を下りきる前に、あたしはぎょっとして足を止めた。

 誰かが、玄関のドアにもたれかかるようにしてうずくまっていたからだ。


 見かけない服装の人だ、というのが第一印象だった。

 ブーツが半分まで隠れるほどの、丈の長い上着。うなだれた頭に、すっぽりとフードを被っている。よく見ると、後ろには大きな荷物を背負っていた。


 恐る恐る、足音を立てないように近づいていく。眠っているのか、その人はぴくりともしない。

 そうっと顔を覗き込む。ゴーグルも防塵マスクもしていない。若そうな男の人だ。

 服や荷物は全く濡れていなかった。雨が降り出す前からここにいたということだ。


 試しに、肩を揺すってみる。


「あの……大丈夫ですか?」


 するとその人は小さく呻き声を漏らして、わずかに頭を動かした。


「大丈夫ですか? 分かりますか?」


 瞼が薄く開かれる。彼は酷く重そうに頭を持ち上げた。


「う……」


 しばらく焦点の合わなかった目が、あたしの姿を捉えたようだ。


「気が付きました?」


 彼はぼんやりとあたしのことを眺めてから、ゆっくりと辺りを見回し始めた。

 そして何か言葉を発しようとした瞬間、盛大に咳き込んだ。

 マスクをしていないからだ。こんな無防備な格好で外を出歩くなんて。


 この人は何者なのか。いったいどこからやってきたのか。なぜ、よりにもよってうちの前にいるのか。

 ここは四方を山に囲まれた盆地だ。おまけに西の山を越えた向こうには大地溝だいちこうがある。

 だからこんな土地へ旅してくる人なんているはずないと、あたしは勝手に思い込んでいた。

 よっぽど、空でも飛んでこない限りは。


 その思い付きに引っ張られるようにして、つい一日前に丘の上から目にしたもののことを思い出す。

 くすんだ色の空を横切っていった物体。月のコロニーから落とされる『追放者』。

 ぎくりとした。もしかして、この人がそうなのかもしれない。だとすれば、彼は大罪人ということになる。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。


 カグさまに報告しなきゃとか、いきなり襲い掛かってこられたらとか、一瞬のうちにいろいろなことが頭をよぎる。

 でも、目の前のこの人は今とても苦しそうだ。塵混じりの空気を吸い続けたら、すぐに病気になってしまう。

 ようやく呼吸の落ち着いた彼が、涙の滲んだ目で見上げてくる。

 そんな視線を受けたら、放っておくわけにもいかなくなってしまった。どのみち、このままでは家に入ることもできない。


 あたしはおずおずと、彼に小さく声を掛けた。


「あの……中、入ります……?」

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