1ー9 片割れのお守り

 酷く荒れた天気の夜だった。

 これまでにも砂嵐に行く手を阻まれることはあったが、何度遭遇しても少しも慣れはしない。

 吹き乱れる砂が視界を遮り、絶え間ない強風がワゴンの横っ腹を殴り付ける。そのたびにエンジンを止めて、嵐が過ぎ去るのを待たなければならなかった。


 僕たちは暴れる風の音を聞きながら、座り心地の悪いシートに身を沈めていた。外は驚くほど真っ暗で、砂の影すらも見えない。

 まさか車もろとも吹き飛ばされることはないだろうとは思いつつも、時おり車体が大きく揺れてはひやりとする。

 こういう時は早く眠ってしまうに限るのだけど、今日こそ無事ではいられないかもしれないという恐怖が勝って、とても寝付けそうにない。


 不意に、運転席のコウがごそりと動く気配がした。

 薄暗い車内灯の明かりではよく見えないけど、懐から取り出した何かを握っているようだ。これまでも同じような夜に、コウがその動作をしていたのを思い出す。


 僕は少しだけ躊躇ためらってから、口を開く。


「あのさ、気になってたんだけど、それ、何?」

「え? ……あぁ、これのことか」


 一瞬、驚いたような反応だった。

 これまでの移動の最中、僕たちの間に会話らしい会話はほとんどなかった。コウは行き先のことなどについてぽつりと口にするだけで他に何か話題を振ってくることもなかったし、もちろんその逆なんてもっとなかった。

 だから、僕から声を掛けたことを意外に思ったのかもしれない。


「旅のお守りだよ。アヤからもらった。こういう夜は、俺もさすがに精神が参ってくるからね。こうしてると少し気持ちが落ち着くんだよ」


 コウの手に握られている『お守り』は、ペンダントのようなものだ。


「また、必ず生きてアヤの元に戻る。もうすぐ子供も生まれるしね」


 ナミと二人でアヤの腹に触れたのが、遠い昔のようだ。

 ふと、僕はナミからもらったブレスレットのことを思い出し、右手首を目の前にかざした。


 これを僕にくれた時、いつになく真剣な顔をしていたナミ。僕たちは生まれてからずっと一緒に育ってきた。こんなにも長いこと離れ離れなのは初めてだ。

 今、ナミは何をしているのだろう。いつもならぐっすり眠っている時間だ。僕のことを心配していやしないだろうか。


 粒の揃った赤い瑪瑙めのう石が、車内灯を鈍く照らし返す。

 元々これは母さんの持ち物だった。でも、どこかでもう一本同じものを見た記憶がある。確か——


 コウがぽつりと言った。


「そのブレスレット……ジンさんも、よく同じようにしてたよ」


 それはさっきの発言の続きにしては長く、別の話題に移るには短いような間の後だった。

 コウの方に顔を向けると、今度は目が合う。


——あぁ、そうだ。もう一本は、たまに帰ってくるあいつの手首に嵌まっていたのだ。


 僕はうすうす勘付いていた。なぜコウが僕を巡行に誘ったのか。

 だから僕は、それを口にする。


「父さんは……」


 唇を噛み、視線を落とし、また上げる。


「……父さんは、どうして、僕たちを置いていった?」


 いったん言葉にしてしまうと、これまで堰き止めていたものが一気に溢れ出てきた。


「父さんはどうして、病気の母さんを置いて月なんかに行ったんだ。死んでいく母さんを見たくなかったから? 何もできない自分が嫌だったから? でも、大切に思ってたんだろ? だったら最後くらい、一緒にいてあげてほしかったよ。一緒にいて、ほしかったよ。いったいどれだけ母さんが……」


 その先を、続けることはできなかった。母さんのものだったブレスレットを、左の手でぎゅっと握り締める。


 死の床に伏せた母さんの最期の姿が脳裏に蘇ってくる。身体のあちこちを醜く腫らし、高熱と痛みに苦しみながら、何度も何度もうわごとであいつの名前を呼んでいた母さんの姿が。

 どうしようもなくて、ずっとナミと手を握り合っていた。死にゆく母さんを前に、何もできなかった。


 そうだ、あの頃から僕はずっと、何もできない役立たずなのだ。

 惨めでちっぽけな、ただの子供。

 もし僕たちが本当に『神の化身』で、母さんの病気を治す力を持っていたなら、どんなに良かっただろうか。


 後から後から零れ落ちていく涙を拭いながら、どうにか気を落ち着けようと深呼吸を試みる。しかしそうすればするほどに息が詰まり、ますます胸は苦しくなった。

 いつの間にか外は静かになっており、車内には僕の洟をすする音だけが響いていた。


 やがて僕の呼吸が整ってきた頃、コウが再び口を開いた。


「実は君に、見せたいものがあるんだ」

「……見せたいものって?」

「自分の目で確かめるといい」

「……何を?」


 僕はコウの言葉を待った。しかし返ってきたのは淡い微笑みだけだった。


「運良く砂嵐が止んだから、夜が明けたら出発しよう。陽が落ちる前には着くはずだ」


 どこに、とは言わなかったが、恐らくその場所にあるのだろう。たぶん、父親に関わる何かが。

 それを目にしたら分かるのだろうか。父親が姿を消してしまった理由が。


 知りたいと思うと同時に、怖くもあった。

 僕にとって父親は、決して許すことのできない裏切り者だった。

 でも、もし——

 もし、父親の裏切りに納得してしまったら、僕はいったい何を憎めばいい?


 どれだけ考えても、やっぱり答えは見つからないままだ。

 全てを包み込むような静けさの中で、僕はシートの上で小さく丸まって、ブレスレットを胸に抱きながら眠った。

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