4ー10 さよならは言わないで

 別離の時は、何の前触れもなく訪れる。

 それはある雨季の日のことだった。朝のスコールによって灰の漱がれた空から、月コロニーの小型宇宙船スペースプレーンが降りてきたのだ。


「月コロニー管理府保安省のセトと申します。トワ博士、刑期満了おめでとうございます。お迎えに上がりました」


 大袈裟な防護服に身を包み、二人のお供を引き連れて不躾に我が家へ上がり込んだ大柄な男は、有無を言わさぬ口調で俺にそう告げた。


 コロニーの住人であることを示す管理用マイクロチップは、俺の左手の甲に埋め込まれたままだ。彼らはその電波を辿ってここまでやってきたらしかった。

 確かに追放刑の刑期は三年だ。だがそれは、人類移住計画の完了と共に形骸化したものではなかったのか。


「刑期なんて、あってないようなものだっただろう」

「法律は法律です。あなたは三年を生き延びた。もっとも、追放刑制度が始まってから初めてのケースではありますが」


 そんなもの、とうに切り捨てた可能性だ。

 俺の生きる場所は地球ここにしかない。最初は自らに言い聞かせて割り切り、一度その道を見失いかけ、今では心からそう望むようになった。

 しかしセトと名乗ったその男は、俺の意思など存在しないかのように言い募る。


「月に戻った暁には、火星コロニー開拓プロジェクトにおける緑化計画チームに加わっていただきます。早急にご準備ください。すぐに出発いたします」

「何だよそれは。ずいぶんと虫のいい話だな。生憎、今さら戻るつもりはない」

「あなたのような優秀な研究員をこんな場所に捨て置くには惜しいと、管理府上層部からの強い要望なのです」


 その言葉に耳を疑った。同時に苛立ちが湧き上がる。

 俺を陥れた管理府が、今さら何を言っているのか、と。


「それなら相応の礼節ってものがあるだろう」

「もちろん、十分な待遇をご用意しております」


 安全で清潔な住居、充実した研究環境、そして高額な給与。セトによって提示されたのは、罪人に対するものとしては破格の条件だった。

 だが、そんなものに何の価値があるというのか。


「家族がいるんだ。俺はここで暮らす。月に戻る気はない。帰って上にそう伝えろ」

「……では、ご家族がいなければ戻ってくださるということですね」


 セトは無機質な声でそう言うと、後ろに控えた二人に目配せをした。男たちはサクを抱いたミカを両側から取り囲む。

 セトが腰から電磁銃レールガンを抜き、俺の妻と娘に向けた。

 一瞬にして、場の空気が張り詰める。


「なっ……」

「手荒な真似はしたくないのです。どうかご同行願います」

「どうして、そこまで……」

「決定事項ですので」

「……家族を連れていくことはできないのか」

「我々の乗ってきた船は定員が四名、そしてこの件での地球への渡航許可は今回限りなのです。トワ博士お一人をお連れします」

「それはそっちの都合だろ。了承できるわけがない」

「こちらは重要な任務として来ています。どのような手を使ってでも遂行せねばなりません」


 銃口は二人に向けられたままだ。取り付く島もない。この男は、与えられた命令に忠実に従うだけの、月コロニー保安部の実動隊員なのだ。

 俺は小さく唸った。


「……なぜ、俺なんだ。火星コロニー開拓プロジェクトだと? そんなもの、月にいる奴らに任せればいいだろう。俺の代わりはいくらでもいるはずだ」


 遺伝子操作で優秀な人材を作り出すテクノロジーがあるのだ。だからこそ俺はゴミのように捨てられたはずではなかったか。


「トワ博士。あなたが追放されて以降、植物開発分野の研究は停滞しているのです。それゆえに、あなたの頭脳が必要だと」

「……ふざけるなよ」


 思わず、言葉を荒げそうになる。だがそれより先に、ミカが声を上げた。


「ちょっとあんたね、何勝手なこと言ってんの? あんたらがトワを月から追放したんでしょ。人を馬鹿にするにも程がある——」


 音もなく光線が閃く。ミカが小さく悲鳴を上げた。そのすぐ足元から、煙が立ち昇っている。


「私はトワ博士と話をしている」


 凍り付くような声だった。この男は、その気になれば何の躊躇もなくミカを撃ち殺すだろう。

 冷や汗が腋の下を伝うのを感じながら、俺は小さく口を開いた。


「……月へ行ったとして、ここへ帰ってくることは?」

「さぁ。私はあなたを何としてでも連れ戻すよう命じられただけですので」

「条件がある。妻と娘には手を出すな。それから、例の計画とやらが済んだらすぐに帰らせろ」

「それは私の一存では……」

「だったら上に掛け合え。何なら、今ここで舌を噛み切ってやってもいいんだ」


 俺はセトを睨み据える。


「あんたに家族はいないのか。愛する者と無理やり引き離される辛さを、少しでも想像してみろよ」


 しばらく視線が膠着した後、セトがようやく沈黙を破った。


「……分かりました。上に問い合わせますので、少々お待ちください」



 セトが船に戻って上層部と通信している間、お供の二人が俺たちを監視していた。

 家族三人で寄り添い合ってセトを待つ。腕の中のミカが、不安そうに俺を見上げてくる。


「トワ……どうなっちゃうの? 月になんて戻らないよね?」

「……分からない」

「そんな、嫌だよ……あんたがいなくなったら、あたしたち、どうすればいいの?」

「あぁ……」


 俺には曖昧な返事しかできなかった。


 しばらくして帰ってきたセトが、先ほどよりごくわずかに柔らかい口調で俺に言った。


「あなたにご家族がいることはこちらとしても想定外でしたので、ご要望に関しては善処するとのことでした」


 善処。それが本当に実現することなのか怪しいものだ。


「……もう一度訊くが、家族を連れていくことはできないのか。船が四人乗りだと言うなら、お供の二人を月に置いてきてから、もう一回来てもらえば——」

「もう一度申しますが、こちらにも退っ引きならない事情があり、この件での渡航許可は今回限りなのです。トワ博士お一人しかお連れすることができません」

「断る、ということは」

「それは先ほども申し上げましたが」


 セトの目がミカを捉え、ゴーグルの奥で冷酷に光った。


 結局のところ、俺に選択肢はないのだ。あの時と同じく。

 俺はとうとう観念して息をつき、ミカに向き直る。


「すまない……」

「え? 本当に行くつもり? 嘘でしょ?」

「そうする他ないみたいだ」

「ふざけないでよ」

「……ごめん」

「嫌」

「ミカ……」

「嫌だよ、トワ。行かないでよ……お願い……」


 俺を見つめる大きな瞳に、涙が盛り上がってくる。紅い唇は震えていた。

 愛おしさで、胸が詰まる。


「……さっさと仕事を終わらせる。必ずここに帰ってくる」


 肌理きめの細かい頬を滑り落ちる大粒の雫を、指先で拭う。


「俺の帰る場所は、ここしかないんだ」


 間に挟まれたサクが俺にしがみ付いてくる。その柔らかな髪と頬を撫で、微笑みかけた。


「サク、いい子にしてるんだぞ。ミカ、サクのことを頼む」

「……ほ、本当に、すぐ帰ってきてよ」

「あぁ、もちろんだ」

「帰ってこなかったら絶対に許さない。一生、許さないから」

「分かった、約束する。命に代えても」


 荷造りに与えられた時間はわずかだった。

 別れ際、俺たちは名残を惜しみ、長く短い口付けを交わした。


「ミカ、サク。愛してる」

「……あたしも」


 二人を抱き寄せる。自分の身体に、その温もりを沁み込ませるように。

 そして俺はコロニーの男たちに連れられて、家を後にしたのだった。



 月へと向かう宇宙船の中で、最後に目にしたミカとサクの姿をずっと瞼の裏に映していた。

 何より大切な、俺の家族。身を切られるような痛みが胸を支配している。

 だが、不思議と絶望は感じない。


 必ず家に帰る。そして再びこの手に二人を抱き締める。

 その誓いが、希望の光となって心の中に灯っていた。


 こうして俺は、故郷へ戻った。



—第4章 三日月を抱く遥かなそら・了—

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