4ー9 灰の降る世界で明日を

——……トワ……


 ずっと、誰かに名前を呼ばれていた。

 実体のない闇の淵を、いったいどれほど漂っていたのか。


——……トワ……ねぇ、トワ……


 聞き覚えのある、心地よいアルトの声。

 愛しい。ただ愛しい。その感情だけが、灯火のように確かに存在していた。

 どこか遠くから響くその声を、もっとよく聴きたいと思った。

 地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸を手繰るように、途切れそうな意識を掴んで辿る。


——トワ……!


 あぁ、分かったよ。今、そっちに行くから。




「……ワ……トワ!」


 聴覚が、質感のある音声を拾う。

 あぁ、ミカの声だ。頭の中で、感覚と記憶が結び付く。

 だが次の瞬間、俺は盛大にせ込んだ。咳に合わせて身体に電流のような痛みが走る。

 肺が酸素を求めている。息はどのようにすれば良かっただろうか。ひたすらに苦しくて、軽くパニックに陥った。


「落ち着いて! ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて」


 いつか似たようなやり取りをした。あれは確か、ミカがサクを出産する時だ。

 そんなことを思い出していたら、次第に呼吸が整ってきた。


「トワ……良かったぁ……」


 徐々に視力が戻ってくる。全身ずぶ濡れになったミカの姿が見えた。サクの泣き声も聞こえる。雨はいつの間にか本降りになっていた。

 すぐ側には大きな岩がある。川沿いの、家と村との中間地点だ。


 未だ痺れが残る唇を、ゆっくりと動かす。


「ミカ……サクも、無事か?」

「うん、大丈夫だよ。ごめんね、あたしのせいで……」

「いや……良かった。二人が、無事ならば」


 切れ切れにそう言うと、ミカが俺の手を取り、自分の頬に当てた。柔らかな肌、緩い熱。そこを濡らしているのは、雨か涙か。


「ありがとう……生きててくれて、ありがとう」


 夢とうつつの間で切望したその温もりに胸が詰まり、言いようもない喜びと安堵が込み上げてくる。

 良かった。本当に良かった。俺はまた、大切な家族と共に生きられる。


 だが身を起こそうした途端、背中に激痛が走り、俺は思わず呻いた。


「あっ、無理しちゃ駄目だよ。今はまだ石つぶてが飛んできてるから、もう少しここで休んでいよう」

「あぁ……」


 俺たちは手を握り合い、噴火が収まるまでその岩陰でやり過ごした。

 雨に打たれた身体が冷える一方で、火山礫の当たった背中だけは燃えるように痛んだ。だが、その痛みこそが生きている証に他ならなかった。



 その後ほうほうのていで村まで辿り着いた俺たちは、一晩カグさんの家でお世話になった。

 俺の怪我は運良く背骨を逸れており、打撲と軽度の火傷で済んでいた。どうやら、背負っていた荷物がクッションになったらしい。短時間とは言え昏倒してしまったのは、衝撃で息が詰まったのが原因だったようだ。

 村の被害はさほどでもなかった。恐らく風向きのせいだろう。


 翌日になってから様子を見に自宅へ戻った。

 丘の火事は、雨によって鎮火していた。消失したのは頂上部分のみで、森や家は無事だった。

 だが、すっかり焼け野原と化した花畑を前に、俺は呆然と立ち尽くしてしまった。

 ルリヨモギギクは、ミカが株を採っておいてくれたおかげで、ぎりぎり全滅を免れたのだ。



 また日常を再開することができる。命があるということに、俺は誰にともなく感謝した。

 しかし、噴火からしばらくの間はろくに外を出歩くことができなかった。降り続ける火山灰で、ほんの数メートル先すらも見通せない状態だったのだ。

 程なくして本格的な雨季が訪れたのは、不幸中の幸いだろう。朝と夕方のスコールで空気中の塵芥が洗い流され、雨上がりには澄んだ空を見ることができた。


 だが、問題点は意外なところから表出した。


「庭のハーブ、枯れちゃった」


 ミカがそう言って肩を落としたのは、噴火から三ヶ月が経過した頃だった。

 恐らく、噴煙に混じった二酸化硫黄が雨に溶け込み、土壌の酸度が上がってしまったのだろう。


「ルリヨモギギクは復活したのにな。もうこの土じゃハーブは育てられないんだろうか」

「うーん、今までも土に卵の殻とか混ぜてたんだけどさ。西の山に石灰岩があったでしょ、白っぽいやつ。あれを削って混ぜてみよっか」


 ミカの提案通りに土を作り、プランターに植え替えることで、ハーブ類はどうにか育て直すことができた。

 しかし時を同じくして、村でも畑の作物が枯れる現象が起きていた。酸性に強いイモ類はまだしも、ハツカダイコンやトマトなどは軒並みやられてしまったのだ。

 空を覆う灰の影響で日照不足気味だったこともあり、十分な備蓄を作ることができず、その年の乾季の暮らしは非常に厳しいものとなった。


 また、気温が下がるにつれ、肺を病む者が増えた。

 外出時にはゴーグルや防塵マスクが必須となっていたが、それでも空気中に含まれる大量の塵芥を防ぎきることは難しく、高齢者など体力のない者から順に倒れていった。

 雨季の不作とも相まって、一年と経たないうちに村の人口は三分の二にまで減少していたのだった。



 一度、村の男たちと石灰岩を削りに西の山へ赴いた折、頂を越えてさらに西へと行ってみた。そこで見たものには、誰もが己の目を疑わざるを得なかった。

 陸地が、なんと途中で分断されていたのだ。

 噴火によって地盤の境目の大地が崩落したらしい。対岸まで数キロはありそうだ。


 我々は西の山の向こうへ行くことができなくなってしまったのだ。当然、『砂漠の国』にも。

 だがどのみち、他の土地に避難するという選択肢を取るには、村の人々は疲れ切っていた。

 噴煙の影響のない地域にまで移動して、家を建て、土を耕して新たな生活を始めることよりも、劣悪な環境に耐えながらも慣れ親しんだ場所で暮らし続けることを、多くの人が望んだのだった。



 噴火からちょうど一年の日に、神職の末裔であるらしいカグさんの提案により、『山鎮めの儀』という儀式を行なった。

 自然現象に対して神頼みなどナンセンスに思えたが、誰からも異論は出なかったらしい。

 その際に俺は、カグさんを含めた何人かと共に南の山の麓まで出かけ、付近の様子を確認した。


「山は落ち着いてるみたいですが、湖が小さくなってますね」

「流れ込んだ火砕流が固まったのだろう」

「もし次に噴火が起きるようなことがあれば、今度は村まで流れてくるかもしれませんよ」

「そんなことになったら、一溜まりもないな」


 カグさんとそんなことを話し合った。

 これ以上の災害が起きないよう願うばかりだ。神頼みする人々の気持ちも、少しだけ分かった気がした。

 あの山が凄まじい炎を噴き上げる壮絶な光景を目にしたことにより、どう足掻いても人間の力の及ばないものがあるのだと、本能で理解させられてしまったのだ。

 そんなものに直面した時に俺たちにできるのは、祈ることぐらいしかないのだと。



 一方で、サクはすくすくと成長していた。栄養状態は決して良くなかったが、一歳を過ぎる頃には一人歩きを始め、意味のある発語も少しずつ増えていった。

 日に日に、ミカに似てくる。小さな両手を広げ、満面の笑みを浮かべながら覚束ない足取りでこちらに駆けてくる様子など、筆舌に尽くし難い愛らしさだった。

 見通しの立たない暮らしの中でも、俺たちは確かに幸せだった。そんな日々がこの先も続いていくのだと、疑うべくもなく信じていた。



 だが、その幸せは唐突に引き裂かれることとなる。

 それは噴火から一年二ヶ月が過ぎた頃——サクが一歳八ヶ月という時のこと。

 つまり、俺の追放刑が執行されてから、ちょうど三年が経過した頃合いのことだった。

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