5ー7 史上最後の追放者
夕飯時の大衆食堂は、昔から変わらず雑然としている。
そして看板メニューである『人工培養牛のソテー丼』の味も、いつまで経っても変わらない。
いや、俺が気付いていないだけで、本当は年々改良が加えられているのかもしれない。
俺が携わる火星コロニーの植物開発にしても、その分野に興味のない人間から見れば大した変化のないものに思えるだろう。
何にせよ俺は、こうして細々と生活するしかない身だ。
いつもと同じ、生きるためだけの食事。
だが、この先も生き抜くために必要な食事だ。
人工牛肉と米。特に味わうわけでもなく、ただ機械的に咀嚼を繰り返しては、腹の中に納めていく。
丼の中身が半分ほどになった辺りで、突然声が掛かった。
「ここ、いいかしら」
ルリだった。店の雰囲気にそぐわない洗練された美貌と輝くような純白のパンツスーツ姿で、やたらと目立っている。
だが、彼女が人目を引く理由はそれだけではない。
「別に構わないが……こんなところにいていいのか、新首相」
「まだ首相じゃないわ。明日の就任式以降は自由な時間がなくなりそうだから、今日のうちにあなたに会っておこうと思って」
ルリが俺の向かいに腰を下ろすと、すぐさま牛ソテー丼が運ばれてくる。予め注文を済ませていたらしい。
「懐かしい。ジンさんと三人で、みんなして食べたわよね」
「あれから二十二年か」
「えぇ……お互い、年を取るはずね」
「ルリはそんなに変わってないよ」
「トワだって、相変わらずよ」
ジンさんを見送ってから二十二年。
俺が追放されてから十七年。
そして、再び月へと戻ってきてから十四年が経過していた。
およそ二十五年前から始まった、火星コロニー開拓プロジェクト。
火星自体のテラフォーミングが一応完了したのは五年前のこと。そして居住地区や管理施設などの建設まで終わったのが三年前。移住が始まったのは、やっと二年前のことだ。
俺の所属する緑化計画チームは、立ち上がりから足掛け十五年になる。しかし火星コロニーが機能し始めた今となっても、あの惑星の土に植物を根付かせる計画は一進一退だった。
あれからいくつかの新種を開発したが、その育成状況はまだまだ不安定だ。
真に生態系を構築できるのは当面先になりそうだが、幸い人材も育ってきている。いずれ実現する未来であることは確かだろう。
一方で月コロニー管理府内は、七年前にニビが
短期間に何度もトップが交代し、議会は踊るのみで一向に進まず、それどころか一般市民の中にわだかまっていた不満も噴出してデモが発生し、事態は悪化する一方だった。
およそ一年前、火星テラフォーミング完了後から火星コロニー移民管理局の責任者となっていたルリを、月コロニー管理府の首相として擁立しようとする動きが出た。
しかしルリがまだ四十代半ばと年若いことや、何よりもあのニビの娘であることから、反対意見も大いにあった。彼女がデモ隊の代表者と積極的に連絡を取り、話し合いを持つなどしたことを批判する者もいた。
だが次第に、一般市民の中でルリを支持する層が増えてきた。
それも偏に、これまで彼女が市井の声に耳を傾けてきたのが奏功した結果だ。人々は強くしなやかで、世の流れにも柔軟に対応できる指導者を求めていた。
世論がそうあっては、現在の管理府はそれに傾倒せざるを得ない。
こうしてようやく、ルリが月コロニー管理府首相に就任する運びとなったのである。
管理府のトップに相応しいとは言い難い食事をしながら、ルリは言った。
「あなたを地球へ帰す約束のことだけど」
「あ、あぁ……」
「業務の引き継ぎなんかでしばらくバタバタするから、すぐにとは行かないけれど……できるだけ早く手配するように努力するわ。申し訳ないけど、少し待っててもらえるかしら」
俺にはいつも選択肢がない。
家族に会える日まであと少し。あと少しの辛抱なのだ。
「……あぁ、分かった。火星の花畑もまだ不安定だしな」
「でも、もうかなり軌道に乗ってるじゃない。私が首相になれたのも、トワが火星コロニー計画に貢献してくれたからよ」
「買い被りすぎだよ」
ルリが首相になれたのは、ルリ自身の努力の賜物に他ならない。それでも今まで通り身近に感じるのは、彼女の持つ気安い雰囲気のおかげだろう。
「新政権は、もっと風通しを良くしようと思うの。追放刑ももちろん廃止。人を恐怖で支配しようとすると、必ずどこかに
「ルリなら、きっとできるさ」
「ありがとう。トワにそう言われると、何だか安心する」
どことなく、昔に戻ったような雰囲気だった。恋人同士になる前の、単なる友人だった頃に。
ただし今の二人を繋いでいるのは、以前とは全く別のものだ。
何ものにも代え難かったジンさんとの温かな時間と、それを永久に喪失したことによって胸の中に空いた大きな穴。その二つを共有しているということが、俺とルリとの確かな絆だった。
食事を終えたルリは、静かに箸を置いた。
「ごちそうさま、美味しかった。また時々これを食べて、初心を思い出すわ」
「勝負メシがこれとは、今度の首相は噂通りずいぶん庶民派だな」
二人揃って笑い合う。
二人揃って席を立つ。
「一人で大丈夫か?」
「一人じゃないわ」
その視線を追っていくと、店の入り口のガラス戸の向こうに大柄な背中が見えた。
かつて俺を地球から連行し、プロジェクトの会議の合間に俺とルリを引き合わせた、保安部のセトだ。彼は十三年前からルリ専属の護衛を務めている。そして——
「そう言えば新婚だったな。おめでとう」
「ありがとう。もう三回目だし、ずっと側にいた相手だから、あんまり新鮮味もないけどね」
そう言いつつも、どことなく甘い表情で夫の後ろ姿を見つめている。
このコロニーで最も強い女性を護る、武骨な盾のように広い背中。きっと彼なら大丈夫だろう。
「じゃあまた、そう遠くないうちに連絡するわ」
「あぁ、よろしく頼む」
そうして俺たちは、それぞれに店を後にしたのだった。
だが、それから十日も経たぬうちに、悠長に構えていられない事態が発生した。
毎日アクセスしていた電波塔からのデータによって、あの一帯での火山性微動がその一週間で急激に増えていることが判明したのだ。
十五年前の記録を呼び出し、現在の数値と比較して検証を行なったところ、数日以内に噴火する可能性が非常に高く、危険な状態であることが分かった。
俺はすぐさまルリに連絡し、助けを求めた。
「俺を今すぐ地球に帰してくれ。噴火が起こるかもしれないんだ」
『数日以内にというのは厳しいわね。あの辺りに降りられる小型
火星の土地は広大なため、小型船はコロニー内に複数ある駅を行き来するための一般的な移動手段なのだ。
「じゃあ、追放刑の脱出ポッドでいい。俺をあの湖に落としてくれ」
『追放刑って……ついこの前それを廃止したばかりなのに』
「だったら俺が最後の『追放者』だ。罪名は管理府ネットへの長期に渡る不正アクセスでも、何でもいい。お願いだ、ルリしか頼れないんだ」
電話越しにも関わらず、俺は深く頭を下げていた。
しばらく沈黙が続いた後、ルリが溜め息と共に吐き出した。
『仕方ないわね、特別よ。トワに頼まれたら、断れないわ』
「ありがとう……恩に着る。あと、もし可能であればなんだが——」
その翌日、俺は宇宙ステーションの搭乗ゲートの前に立っていた。
護衛である夫・セトを伴って見送りに来てくれたルリは、唇を尖らせて言った。
「本当に大変だったんだから。しばらく後処理に忙殺されそうよ。あなたの職場の引き継ぎだってめちゃくちゃだし。ほら、これ、頼まれたもの」
ルリからアタッシュケースを受け取り、中身を確認する。昨日の今日で用意してくれたのは、さすがとしか言いようがない。
仕事を中途半端にして行くのに全く心残りがないと言ったら嘘になるが、今はそれどころではなかった。
「ありがとう。無理を言ってすまない。本当に助かるよ」
「まぁ、いいわ。こちらこそ、トワには力になってもらったから」
ルリは姿勢を正し、真剣な眼差しで俺を見た。
「とうとう行っちゃうのね」
「あぁ……」
「……トワ、私ね、いつか地球との交通ルートを再開できないかと考えてるの」
「地球との?」
「そうよ。地球は死んだ星なんかじゃない。まだそこで暮らしてる人たちがいる。だったらもっと自由に行き来できるようにすべきよ。今、そのためにいろいろな準備をしてるの」
「さすがだな。ルリならきっとできる」
「当たり前じゃない。私を誰だと思ってるの?」
ルリはそう言って、隙一つない完璧な笑みを浮かべた。
「それなら俺は、その日のために地球を緑でいっぱいにしておくよ」
俺も負けじと背筋を伸ばす。持参した荷物には、俺が新たに開発した植物の種子も入っているのだ。
駅の係員がやってきて、俺に搭乗を促した。
「じゃあ、またいつか。ご家族によろしく」
「あぁ、いい知らせを待ってる」
俺たちは固い握手を交わし、手を振り合った。
重いシャッターゲートが閉まると、ルリの姿は完全に見えなくなった。
俺とルリとの今の関係を、はたして何と呼んだらいいのだろう。友人というのとは少し違う気がする。
ただ一つ確実に言えるのは、ルリは俺の人生を語る上で欠かすことのできない存在だということだ。
出会えて良かった。再会できて良かった。心からそう思う。
ジンさんが結び付けてくれた絆。それは今後恐らく、月と地球との関係を大きく変えていくものになるだろう。
彼女の名前を冠した花は、きっと今もあの丘で美しく花を咲かせている。
俺は長く短いボーディングブリッジに足を踏み出し、
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