2ー5 遠き絆を結わう約束
ジンさんが出発する前日の夜、俺たち三人はすっかりお馴染みとなった大衆食堂で夕食を摂った。注文は全員同じ、いつもの牛ソテー丼だ。
三人で一緒に過ごす時間は、俺にとって心安らぐ楽しいひと時だった。これが最後だとは、とても信じられなかった。
食事も終わりに近づき、店内の喧騒に紛れていた寂しさを思い出すより前に、俺は切り出した。
「ジンさん。俺、ヒルコ症を予防するための植物を作ってみようかと思ってるんです」
「予防……? 植物で、ですか?」
「えぇ。昔、地球で栽培されていたシロバナムシヨケギクという花から、蚊を退治するための香が作られていたそうです。それでマラリアという恐ろしい感染症を防いでいたこともあったらしい。でも残念ながら、もう種子も苗も存在しない花です。ジンさんも、きっと見たことないですよね」
俺は腕時計型端末を操作して、その花のホログラフィーを空中に映し出した。マーガレットによく似た、白色の花弁を持つキク科の植物だ。
「調べたのね、トワ」
「あぁ、もちろん」
ルリにシロバナムシヨケギクの話を聞いてから、俺はすぐに
この花の胚珠に含まれる成分は哺乳類や鳥類には無害だが、両生類や爬虫類、そして昆虫類に対して強力な神経毒として作用し、命を奪うものだったらしい。
花を粉末状にしたものは農作物用の殺虫薬として使用されていたそうだ。
「えぇ、そういう花は見たことないですね。故郷で焚いているタチジャコウソウの香は、蚊を寄せ付けないようにするだけで、駆除する効果はありません」
「蚊を根本から駆逐するのは無理でも、人間の生活範囲に侵入してきたものを確実に退治することができれば、生態系へ影響を及ぼすことなく、刺されるリスクを大幅に下げることができます」
ルリが口を挟む。
「治療法のない病気なら、罹らないようにするのが一番よね。念のため研究所の倉庫を確認してみたけど、残念ながら予防薬みたいなものはなかったわ」
「どのみち、数に限りのあるものでは一時凌ぎにしかならないだろう。植物なら、栽培に成功すれば永久に増やしていける」
次に俺は、投影する映像をヒルメヨモギに切り替えた。白緑色の羽状複葉に青色の花を持つ、こちらもキク科の植物だ。
「それから、このヒルメヨモギ。これも絶滅種ですが、ヒルコリア糸状虫に効く唯一の駆虫成分を持っていた。これも何らかの形で復活させようと思います」
「でも、寄生虫を麻痺させたところで体外に排出できないと、血管が詰まる可能性があるわよ」
「発症前の、幼虫の段階なら問題ないだろう。イヌのフィラリアもそうやって予防してたみたいだよ」
「なるほど、まずは蚊に刺されないこと。万が一刺されて感染しても、発症前に駆虫すること。この二つができればいいわけね」
「その通り」
ジンさんは曖昧に頷いた。
「確かに、それであればヒルコ症を予防できそうですね。……だけど、なぜ?」
「単なる知的好奇心です。俺の個人的趣味なので気にしないでください」
一旦興味を引かれてしまっては、どうにもブレーキが効かない。
既に身体の芯がそわそわと疼いていた。すぐにでも作業を始めなければ、気がおかしくなってしまいそうだ。
「それと、今研究してる小麦も、実用化が進めば地球でも役に立つと思います。うまく行ったら、どうにかして地球に種子を送ります」
「えっ……『どうにかして』って、どうするつもりなのよ」
「追放刑の脱出ポッドをうまく利用できないかな」
「あのね、トワ……地球に何か送るのなんて、そんなに簡単じゃないんだから」
俺たちのやりとりに、ジンさんは慌てる。
「あの、トワさん、お気持ちはすごくありがたいんですが……私が地球に帰れるのも、ルリさんのおかげなんですから」
一瞬、二人が目配せしたように見えた。
ルリが軽く溜め息をつく。
「……もう、本当にトワって……いろんなことに鈍いんだから」
いろんなこと? どういうことだ。ルリの言い草に、俺は少しむっとする。
ジンさんが俺たち二人の顔を見比べる。そして合点が行ったように小さく声を漏らして、破顔した。
「トワさん……あまり研究ばかりだと、知らないうちに大事なものが逃げていくかもしれませんよ」
「……え?」
二度三度、
ルリの方へ視線を向けると、すっと目を逸らされた。その頬が紅潮して見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。
ジンさんが含み笑いしながら小さく呟いた。
「お似合いだと思いますよ」
出発当日は、自動運転の公用車で宇宙ステーションまで赴いた。
コロニーにただ一つしかない駅は、開拓中の火星へ行き来するための
今のところ主に管理府関係者と建設業者しか利用していないが、火星のテラフォーミングが終わって移住が進めば定期運行の便が出るようになるはずだ。
護送されてきた追放刑の罪人が、先に
罪人は出発時から脱出ポッドに乗せられるらしい。落下地点は特定の数ヶ所のうちから一つが選ばれる。
南極の氷が融けたせいで陸地が少ないことや放射能汚染の酷い地域が多いことなどを考慮すると、地球上で人間が生きられる土地には限りがある。
少しでも生存可能性の高い場所に落とすのが、いわゆる『追放者』に掛けられるせめてもの情けだった。
ジンさんはその中でも『砂漠の国』に最も近いポイントに落とされることになっていた。旅慣れた彼ならば、すぐに故郷へ戻ることができるだろう。
俺たちはボーディングブリッジに繋がる重厚なシャッターゲートの前に立ち、最後の挨拶を交わした。
「トワさん、ルリさん、ありがとうございました。薬のことはもちろんですが……まさか月に来てこんなに楽しい日々を過ごせるなんて、思ってもいませんでした。お二人のことは絶対に忘れません」
「いえ、こちらこそ。本当に楽しかったです。ジンさんに会えて良かった」
ジンさんが俺を訪ねてきてから、約二ヶ月が経過していた。
あっという間の月日だったが、恐らく忘れることのできない、人生の中でも大切な二ヶ月だったに違いないという確信があった。
ルリが、ジンさんに歩み寄る。
「あの、ジンさん……」
ジンさんは小さく頷き、笑みを深くする。
「ルリさん、私はあなたに心から感謝しています。家族の元に帰ることができるのは、間違いなくルリさんのおかげですよ」
「ジンさん……そう言っていただけると、私も救われます」
どことなく不思議なやりとりだった。ルリはルリなりに、ジンさんに対して思うところがあるのだろう。
この、くしゃりとした人好きのする笑顔も見納めなのだ。そう思ったら胸が詰まった。不意に目頭が熱くなる。
俺はできるだけ明るい声を出した。
「小麦や例の植物、開発できたら必ず送ります」
「はは、楽しみにしてますね」
駅の係員がやってきて、ジンさんに搭乗を促す。いよいよ、別れの時なのだ。
「では……お二人ともお元気で。さようなら」
「ジンさんも。無事に帰って、ご家族に顔を見せてあげてください」
「どうかお元気で、お気を付けて」
俺たちはそれぞれ固く握手をした。出会った時と同じ、大きくて温かい手のひら。その左手首には、あの深い赤色の石のブレスレットが光っている。
シャッターが開くと、ジンさんは係員に連れられて奥へと進んでいく。重い音を立てて再びシャッターが閉まり、その後ろ姿は完全に隠されてしまった。
鼻の奥がつんとする。どうにも堪えきれなくなり、俺は洟をすすった。
分厚い強化ガラスの向こうには、本物の宇宙の空が広がっている。
凹凸の多い地平線の端から地球が顔を覗かせていた。これからジンさんが向かう、青く輝く美しい星。
ボーディングブリッジが、とうとう船体から外される。
鈍い銀色の宇宙船がゆっくりと動き始め、徐々に加速しながら長い長い滑走路を駆け抜けていく。
その機体は、まるで透明な坂道を登るように浮き上がり、無数の星々がきらめく漆黒の空へと飛び立っていった。
俺たちは無言のまま、だんだん小さくなる船影を眺めていた。
それがついに見えなくなった頃、ルリと隣り合った側の手の先に何かが触れた。
「ジンさん、無事にご家族に会えるかしら」
ルリの瞳も濡れていた。鼻が少し赤くなっている。
その表情を目にした途端、俺はしばし呼吸を忘れた。
ルリは唇を開きかけたが、結局何も言わなかった。長い睫毛が伏せられ、軽く触れ合っていた指先の温もりが離れていく。
俺はその手を捕まえた。
「会えるさ、きっと」
妻を助けたいと、子供たちを抱き締めたいと言ったジンさんの顔を思い出す。慈しみに満ちた眼差しを思い出す。
あの時、胸の中をざわつかせたもの。その感情の正体に、俺はようやく気付いた。
それは心を焦がすような、強い憧憬の念だ。
ジンさんの視線の先にあったであろう、彼を待つ温かな家族のイメージ。
ジンさんにとっての『帰る場所』。
純粋な愛情で結ばれた絆を——自分には与えられなかったそれを——俺はきっと、信じてみたくなったのだ。
俺たちは手を繋いだままじっと目を凝らし、ジンさんの乗った船の消えた
その行く先に、愛する家族と笑い合う彼の姿があることを祈って。
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