2ー8 黒に塗り替えられる
ルリにプロポーズしてからひと月ほど経ったある日の朝のことだった。
俺は出所するなり呼び出され、所長室へと赴いた。するとそこには、見覚えのないスーツ姿の大柄な男が二人いた。
部屋は重く物々しい雰囲気で満たされていた。嫌な予感が急速に頭の中を覆っていく。
所長が堅い表情で切り出してきた。
「トワくん、確認したいことがある」
「何でしょう」
「数年前、妙に大学院の研究室に入り浸っていた時期があったと記憶しているんだが、君はあの時いったい何をしていた?」
「後輩の研究の手伝いです。以前お伝えした通り」
俺は極力平静を装った。しかし心臓は嫌な音を立てて騒ぎ始め、腋の下には冷たい汗が伝っていく。
「では、これに見覚えは?」
所長から差し出されたのは、細かい種子がたくさん入った小さなポリ袋だった。
それは、俺が小麦生産工場の工場長に頼んで追放刑の罪人の荷物に紛れ込ませたルリヨモギギクの種子に間違いなかった。
俺はからからに乾いた口をどうにか開く。
「……それは、あの小麦を地球で育てるために必要な肥料ですね。小麦と一緒に地球へ送ってもらうよう、僕が依頼したものです」
「小麦工場の責任者からも、君から同様の説明を受けたと聞いた。だが、なぜ勝手にそんなことをした?」
「申し訳ありません。報告を失念しておりました」
「悪いが、中身をこちらで調べさせてもらった。これはヨモギギクの亜種だろう。人体に有害な毒草だ。君はこの登録外品種を、勝手に『追放者』の小麦の中へ紛れ込ませたんだ」
「……何のことを仰っているのか、よく分かりませんね」
空気中の酸素が極端に薄くなったかのようだ。指先は酷く痺れている。
所長がスーツの男たちへと視線を向ける。男の一人が静かな口調で言った。
「五年前、あなたは同じアパートメントにいたジンという人物と交流があったようですね。彼は月に移住して三ヶ月で、追放刑の罪人と同じ方法で地球へ帰っている。首相のご息女であるルリさんの手引きで」
「えぇ、それは確かですが」
「大学院の教授に話を聞きました。ちょうど五年前から数年間、あなたが地球時代に絶滅した品種の研究のために新たな植物を開発していたと」
「それは……」
「ルリさんとは、やはり五年前から交際されていますね。彼女の勤務先である薬学研究所にも当たってみたんですが、三年ほど前、この新種のヨモギギクの成分を使った実験の記録があったそうです。その大学院からの依頼として。このことは、何かご存知ですか?」
「いや……」
話がルリのことに及ぶと、冷静さを保つのが一気に難しくなった。今や心音は警鐘のように激しく鳴り響いている。
「そうですか。ではルリさんを拘束して直接確認する他ありませんね」
男が腕時計型端末に触れる。その一瞬のうちに、様々なことが脳裏を駆け巡る。
ジンさんとの約束、ルリとの婚約、そして彼女の父親である管理府首相——
「……待ってください。彼女は関係ない」
気付けば、そんな言葉が口を突いて出ていた。
「全て僕が一人でやったことです。だから、彼女は何も関係ないんだ」
男たちが互いに目配せをし、頷き合う。
「トワ博士。ご同行願います」
こうして俺は保安部に拘束されたのだった。
それからのことはあまり覚えていない。来る日も来る日も取り調べがあり、数えるのも嫌になるほど繰り返し同じことを訊かれた。
拘束は幾日にも渡り、心身ともに疲労が蓄積して、徐々に時間経過の感覚すらも麻痺していった。
「なぜ工場長を騙してまで毒草の種子を罪人の荷物に紛れ込ませたのか」
「例の地球人と何か良からぬ取り引きをしたのではないか」
「どういう意図で首相の娘を巻き込んだのか」
ルリは全く関係ないと、あれはヒルコ症予防のために開発した花の種子だと——それ以外に他意はないのだと、必死に弁明した。
だが俺の言い分は不自然なほど聞き入れられず、それどころか少々強引とも思える理屈で詰問され続けた。
どうやら彼らの中には、俺が「地球から来た旅人に依頼されて危険な成分を持つ毒草を開発し、首相の娘を
俺がジンさんに向けて書いたメッセージと花の註釈はどこかで握り潰されてしまったらしく、一切言及されなかった。
ヨモギギクが強い毒性を有していること、そして違法な方法で種子を地球に送ったことが、俺にとって不利に働いた。
「あの花に含まれる毒を利用すれば、人間を死に至らしめることも可能なのだろう。お前はルリさんに近づくことで、首相に毒を盛るチャンスを狙っていた」
「あのジンという男は、地球を捨てた月コロニー管理府に恨みを持っていたのではないか。だから、お前に首相暗殺を依頼した。その約束を果たすのに使用する毒物をジンに示すため、種子を地球に送った」
めちゃくちゃだ。仮に首相を毒殺するならば、もっと手っ取り早く手に入る薬物がいくらでもあるはずだ。第一、暗殺を実行する前にそんな危ない橋を渡る奴がどこにいるのか。そう主張したが、全くの無駄だった。
ジンさんとの『約束』をそんな風に汚されたことにも、
「例の小麦のプロジェクトの発案は、管理府の利益を謳っておきながら、実際はお前自身の目的のためだったのだろう」
特に厳しく追及されたのはその点だった。こればかりは事実であり、どうにも言い逃れができなかった。
管理府から選定された弁護士は、俺が政治犯だと最初から決め付けていた。
長期に渡る容赦のない自白強要。奪い取られていく体力と、摩耗していく精神。
掛けられた嫌疑を否定し続けることにも疲れ果て、一刻も早くこの状況から解放されたいという切望に思考が支配される。
まともな判断力が失われ、だんだんと自分が本当に彼らの言う通りの罪を犯したかのような錯覚に陥っていった。
そして勾留二週目、俺に来客があった。
それは、コロニー管理府首相——ルリの父親、ニビだった。
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