2ー7 色とりどりに夢見る
ルリヨモギギクの種子を地球へ送るとしたら、追放刑に処される罪人の荷物に入れるのが、やはり考え得る唯一の方法だ。
だがそれは決して簡単なことではない。
大学院の研究室を間借りして個人的に開発を行なっただけなら単なる趣味の範疇で終わるが、それを世に出そうとなると話は別である。
新種植物に対する品種登録は、この月コロニーで利用価値のあるもの——つまり食用のものに限定されている。
登録外品種の植物を公的な用途に使用するのは不可能だ。
それよりも、ジンさんと交わしたもう一つの約束——小麦を送る方が、遥かに簡単だった。
俺はまず直属のユニット長にその案を持ち掛けた。
話はユニット長から所長に伝えられ、俺は所長室に呼ばれた。
「『追放者』の荷物に小麦を入れたいという話を聞いたが、突然どうしたんだ」
「いえ、せっかくあの小麦が軌道に乗ってきたので、何か他のことに活かせないかと思っただけです」
「具体的には? 何か実利はあるのかね」
「えぇ。まず、入れる種籾はだいたい五百グラム程度を想定しています。コロニー内での供給には影響を及ぼさない量です」
俺の開発した小麦は、今や種蒔きから収穫までを二ヶ月強という短い期間で完了できるようになっていた。効率よく育てれば、五百グラムの種籾からでもどんどん増やしていけるだろう。
「まだ地球上には人が生活しています。上手くすれば現地の人々と協力して小麦の栽培を行うこともできるでしょう。つまり、罪人が生き延びる可能性を高められる——ひいては人権の尊重にも繋がります」
人間が生存可能な地点を選んで罪人を落としているくらいなので、食糧になるものを持たせることと矛盾はしないはずだ。
「地球からの移住計画が完了した今、追放刑に反対する意見が少しずつ出始めています。それを抑える材料にもなり得るはずです」
「……なるほど」
それは主に、管理府内で反ニビ派の立場を取る官僚によって煽動されている論調だった。そのせいで、これまで不動だったニビの地位には若干の揺らぎが見え始めている。この提案はニビにとって助けとなる可能性がある。
「また、現地での継続的な小麦栽培に成功すれば、地球環境の回復も見込めます。将来的に地球資源の再利用も視野に入れることができるかもしれません。そうとなれば、追放刑は役務の意味も持つこととなり、一石二鳥です」
前のめり気味に理屈を展開していく俺に、所長は少々圧倒されたようだった。
「珍しいな、トワくんがここまで熱弁を振るうとは」
「元々、地球の植物に興味があって志した道ですし……何より、コロニーの一層の発展に貢献できればと」
「分かった。君がそこまで言うなら、管理府の担当部署に一つの案として打診してみよう」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
かくして植物遺伝子学研究所の所長によって管理府へ上げられた俺の案は議会にかけられることとなり、一年後、小麦を地球へ送るプロジェクトが始動した。
どうやら「追放刑反対派を抑えるための材料になる」という点が採用の決め手となったらしい。
何にせよ、年に数人のペースで生まれる『追放者』の荷物に、俺が提案した通り五百グラムの種籾が入れられるようになったのだ。
一方で俺は小麦の生産工場へ赴き、
罪人用の小麦の種籾の中に、ルリヨモギギクの種子を入れ込んでもらうこと。
それを「地球の土で育てるために必要な肥料」だと
だから『追放者』の荷物は
その後も追放刑の執行が決まるたび、俺は小さなポリ袋に入れたルリヨモギギクの種子を工場に届けた。花の取り扱いに関する注釈と、ジンさんへのメッセージも添えて。
こうして俺はジンさんとの約束通り、殺虫・駆虫成分を有する植物の種子を地球に送ることに成功したのだった。
ルリは俺を心配していた。しかし、俺はろくに取り合わなかった。
もちろん不正をしている自覚はあったが、これにより誰かが不幸になるわけでも、治安が乱れるわけでもないため、罪の意識は極めて希薄だった。
それどころか、「自分は倫理的に正しいことをしている」という気持ちすらあった。
『追放者』によって運ばれた種子がジンさんの手に渡り、俺の開発したルリヨモギギクや小麦が地球上に根付けばいい。
青色の花や黄金色の小麦が風にそよぐ景色を、純粋な少年のように夢想した。
それから
二年の間に執行された追放刑は八件。その罪人のうち半数は、ニビの暗殺を企てたとされる反体制派の官僚たちだった。ニビによる統治体制は、再び強固なものとなっていた。
ジンさんを見送ってからちょうど五年が経ったその日、俺とルリはいつもの大衆食堂を訪れていた。
二人揃って『人工培養牛のソテー丼』を注文し、いつものように差し向かいで食事をする。
「ねぇ、トワ。ルリヨモギギクのことだけど……そろそろ危険じゃないかしら」
「大丈夫だよ。誰かが不利益を被ってるわけでもないし、バレようもないさ」
「でも、もしあなたに何かあったら、私……」
ルリはそっと目を伏せた。その不安そうな表情に、胸の奥が痛んだ。俺はルリの白い手に自分の手を重ねた。
「……分かったよ。正規のルートで種子を送る方法がないか、ちゃんと考えてみる。開発中の火星コロニーで、植物を自生させる計画があると聞いた。そこでルリヨモギギクが登録品種として認められれば、可能性はあるはずだ」
「えぇ、その方が絶対いいわ。地球のために仕事をしてるって、胸を張って言えた方がいいでしょ?」
確かにルリの言う通りだ。
早くジンさんに種子を届けたいと急いていた気持ちが、少し落ち着いた。
ほっと頬を緩めたルリは、いつもの調子に戻った。
「今まで送った種、ジンさんの元に渡ったかしらね」
「どうだろうな。実際、確率は低いと思う」
「地球に落とされて、いきなり小麦を栽培しろっていう方が難しいかもね。ましてやただの花なんて」
「現地の住人の協力を得ないとまず無理だろうな。ただ、ジンさんはキャラバンで砂漠地帯を巡行してるはずだから、その付近に落とされた罪人がいるのなら望みはある」
「あの花、地球の土でもちゃんと咲くのかしらね。一度でいいから見てみたいわ、見渡す限り一面に広がった花畑を」
「あれ、ルリ。あの花のこと、野暮ったいって言ってなかったか?」
ルリはわずかに眉根を寄せ、小さく唇を尖らせた。
「それはトワが私の名前なんか付けるからよ」
少し機嫌を損ねてしまったように見えるルリに、俺は内心慌てた。まだ本題に入る前なのに。
これ以上に事態が悪化するのを恐れた俺は、慌てて水を飲み干して深呼吸した。そして居住まいを正し、口を開く。
「ルリ、実は君に話があるんだ」
「え? 何?」
俺はポケットに忍ばせていたものを取り出した。その小さな箱の蓋を開け、ルリに差し出す。
「結婚しよう」
ルリは表情を固めて、小箱に収められたダイヤモンドの指輪に視線を注ぎ続けている。
無言が怖い。
周囲の雑音はすっかり消失し、鳴り響くのは自分の心音ばかりだ。
ルリの瞳がほんの少しだけ揺れたように見えた。鮮やかな口紅に彩られた形の良い唇を、開きかけてはまた閉じる。
そうして何度か逡巡した後、彼女は小さく呟いた。
「……ねぇ、こういうのって、もっと相応しい場所があるでしょ?」
「あ……ごめん」
「しかも、切り出すタイミングもおかしい」
「た、確かに……」
「……もう、本当に相変わらずね」
ルリは静かに息を吐ききると、わずかに口角を上げた。
「……嬉しい」
カールした睫毛に縁取られた目から、一粒の涙が零れた。その透明な雫が頬を滑り落ちていく様子に、俺はただただ見惚れていたのだった。
この日はまさに人生の絶頂と言っても過言ではなかった。
ジンさんは元気だろうか。ルリと結婚の約束をしたことを、報告できたらいいのに。
想像の中のジンさんは、五年前に見送った時に思い描いたまま、愛する家族に囲まれて幸せそうに笑っていた。
もうすぐ俺にも家族ができる。ルリと共に、新しく家庭を作っていくのだ。温かく、愛に溢れたものであったらいい。
それが俺にとっての『帰る場所』になるのなら、これ以上のことはないだろう。
だが、その夢が現実になる日は、ついぞ来なかった。
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