1ー10 砂の海を漕いで
翌日は、昨晩の砂嵐が嘘のような晴天だった。外へ出て身体を伸ばし、干し肉を齧って少しの水を飲んでから、僕たちは再び出発した。
道中、相変わらずコウとはほとんど口をきかなかった。ただ時間だけが淡々と流れていた。
やがてワゴンは『希望の塔』の真横を通り掛かった。僕は降り注ぐ強い日差しに顔をしかめつつ、車窓からそれを仰ぎ見た。
遠目には銀色だったその塔は、こうして間近にするとところどころ錆び付いているのが分かる。恐らくこの十年間、手入れをする者もなくずっと砂や風雨に晒されてきたのだろう。
かつて人類の夢を乗せてシャトルを打ち上げた、天にも届く『希望の塔』。
だけどもはや『希望』とは程遠い姿だ。これもまた、取り残された存在ということなのだろう。
運転席のコウから声が掛かる。
「近くで見るの、初めてかい?」
「うん」
ワゴンが『希望の塔』の足元で停止した。
「普段だったら、ここが巡行の折り返し地点なんだけどね。この先は砂が柔らかすぎてタイヤがうまく回らないから、歩いていこう」
その視線が示す先には、果てしない砂漠が広がっている。
何となくこの塔が目的地だと思っていたので、僕は内心驚いた。
コウはすぐさまデザートストールを着込み、水や食糧を手際よくバックパックに詰め込んでいく。僕も黙ってそれを真似た。
「そうだ、これを自分の荷物に付けておくといい」
手渡されたのは、例の鈴だった。
僕がそれをじっと見つめていると、コウは軽く微笑んだ。
「まぁ、お守りみたいなものだよ。少し風が強い場所だから」
コウはなぜか、ワゴンの荷台に積んであったバールを鞄に括り付けた。
この長身の男も、巨大な鉄塔の袂に立つと何だか小さく見える。コウは太陽の位置と方位磁針を確認し、首から提げた双眼鏡を覗き込んだ。そして軽く頷いた後、僕にちらりと目配せしてから歩き始めた。
コウに続いて踏み出した大地は、少し進むと確かに柔らかく不安定になった。昨夜の暴風の影響か、砂漠には大小のうねりができている。
一歩踏み出すごとにブーツが脛まで埋まり、砂が崩れてがくりと身体が沈み込む。ただ歩くだけのことなのに、思った以上に骨が折れた。
しかしコウは平然と進んでいく。しゃん、しゃん。いつもと同じ調子の鈴の音。そんな姿を前にして、情けない弱音を吐くわけにもいかず、僕は平気なふりをしてついていった。
前後左右、どちらを向いても砂の海だ。行けども行けども景色は変わらず、だんだんと時間の感覚すらも曖昧になってくる。
じりじりと照り付ける太陽に、身体じゅうの水分と体力を奪われる。
コウに倣って塩を嘗めながら水筒の水を少しずつ口に含む。だけど、からからの喉はどうしようもないほどに渇きを訴えていた。
そのうちに脚はどんどん重さを増し、ある時ついに僕は転倒してしまった。
いったん転ぶと、身体の平衡感覚を保つのが一気に難しくなった。何度も何度も、足が
「大丈夫か」
差し出された大きな手を、僕は無言で断った。
コウは少し離れたところで立ち止まり、僕のことを待っている。それが却って焦りを生む。するとますます身体は思い通りに動かなくなり、僕が砂の上に転がる回数は増えていった。
もう何度目かも分からない転倒の後、僕は横たわったまま一つ息をついた。
この身を受け止める砂の熱さが布越しに伝わってくる。直射日光が容赦なく降り注ぎ、わずかに出ている肌をちりちりと焼く。疲労は今や全身に圧し掛かり、手足を動かすのも億劫に思えた。
僕を呼ぶコウの声が耳に入る。
どうにか力を振り絞って立ち上がろうとした、その瞬間。
突然、横手から強風が吹き付けてきた。
その凄まじい突風に、僕の小さな身体はいとも容易く押し倒されてしまう。
巻き上げられた大量の砂によって、視界が遮られる。
砂山をごろごろと転がった衝撃で、ゴーグルとマスクが外れた。細かな砂が、目から、口から入ってくる。
なおも叩き付ける風の中で、堪らず
ようやく呼吸が通り、目の砂が涙で流れると、僕は恐る恐る顔を上げた。
すると先ほどの景色とは一転して、砂の弾幕が行く手を遮るように立ちはだかっていた。
ぐるりと見回すと、同じような砂煙がいくつも上がっているのが分かる。僕を襲った風は行ってしまったようだけど、この砂丘のあちこちで突風が吹いているらしい。
そして、コウの姿は、どこにもなかった。
耳を澄ましても、あの鈴の音は聞こえない。
僕も出発前に鈴をもらったことを思い出し、身を低くしたまま荷物に付けたそれを鳴らしてみる。だけど、返答はない。
次にその付近で一番高い砂山に登り、鈴を鳴らす。しばらく待ってみても、聞こえるのは風の音ばかりだった。
いったい何が『お守り』だ。
僕は鈴を鳴らすのを諦めて、その場に崩れるように腰を下ろした。
進むべきか、戻るべきか。
そもそも僕は目的地を知らない。引き返そうにも、砂のせいで『希望の塔』の影形も見えない。持ってきた水もとうに飲み尽くしている。
もう、お手上げだ。
僕は手足を投げ出すようにして寝転がった。あれだけ強い光を放っていた太陽も、砂塵によって霞んでいる。
時おり、僕の上を風が通過していった。そのたびに流されてくる砂が、少しずつ僕の身体を隠していく。
僕はこのまま埋まってしまうのだろうか。こんなところで死んだら、きっと誰にも見つけられないだろう。
酷く疲れていた。ぼんやりした頭に、取り留めのないことばかりが浮かんでは消える。
僕の人生は、僕という存在は、いったい何だったのだろう。
いつも中途半端で、役立たずで、結局何もできないまま死んでいく。
僕一人がいなくなったところで、何でもないことのように思えた。このまま大地に身を任せてもいい。そんな気さえした。
不意に、空を覆っていた砂の幕が途切れた。
それまで遮られていた日光が直接目に入り、僕は咄嗟に右手をかざす。
視界に入ったのは、赤い
ナミ。
——ナギったらまた無茶をして。
そんな声が聞こえた気がした。
僕が帰らなかったら、ナミはどうするだろうか。
——希望を持つことに、意味はあるはずだわ。
まっすぐの眼差しでアヤの安産を願ったナミ。
真剣な面持ちで僕のことを送り出してくれたナミ。
十五年間、ずっと一緒に生きてきた。母さんがいなくなって孤独に押し潰されそうだった時も、二人でいたから乗り切れた。
いつも僕を気遣ってくれる、しっかり者の僕の妹。
きっとナミのことだから、僕が生きて帰るものだと信じて待ち続けるのだろう。
そしてみんなの前では気丈に振る舞って、一人きりで眠れぬ夜を過ごすのだろう。
この先何年も、何十年も、そうやって過ごすのだろう。
それを考えたら、堪らなくなった。
濃い青色の空を、一羽の鳥が駆けていく。
帰らなきゃ。
僕は、こんなところで、野垂れ死ぬわけにはいかない。
肘をついてゆっくりと半身を起こす。そのまま膝を引き寄せ、靴底を地に付けて立ち上がる。
頭がふらついてまた倒れそうになったけど、どうにか持ち堪える。大丈夫、歩けるはずだ。そう自分に言い聞かせる。
その時だった。
しゃん、という鈴の音が、耳に入ったのは。
辺りを眺め渡しても、コウの姿はない。
しかしその音は確かに、どこからともなく聞こえてくる。
しゃん、しゃん、しゃん——
耳を澄まし、目を凝らす。
熱気をはらんだ風が、頬を、髪を掠めていく。
心臓が、どくんと強く脈を打った。
砂の山々を越えた遥か向こう、塵埃で霞んだその先に、誰かの人影を見た気がしたのだ。
だけどそれは、一瞬のうちに消え去ってしまう。
コウだったのか、それとも見間違いだったのか。
鈴の音だけが、ずっとその方向から響いてくる。それに導かれるようにして、僕は一歩を踏み出した。
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