第39話 朝霧の戦い
誰もいない屋上で、俺は一人鶴羽の前に立つ。恨縄と戦うなら狭い廊下よりも自由に動けた方がいいと思い、ここまでおびき寄せた。
鶴羽は俺のことをじっと見据えている。
恨縄が長く取り憑いていた影響か、表情は虚ろで、すでにそこに本人の意識はない。そんな彼女の姿を、胸がかきむしられる思いで見つめた。
前に、好きだと言われた時のことを思い出す。
突然のことに戸惑い、どう応えればいいのか分からず、浩司から受けた助言に流されるまま、誠意のかけらもないことをした。
後悔と罪悪感で押しつぶされそうになる。この事態の原因は、恨縄が鶴羽に取り憑いたことにある。けれど、あの時自分が鶴羽の気持ちに正面から向き合っていれば、もっと違う結果になっていたのかもしれない。
少なくとも、五木を巻き込むようなことはなかった。
ついさっき、五木に言った事を思い出す。今まで隠していた俺の秘密。俺が人間でないという事実。まさかこんな形で告げる事になるとは思わなかった。
二人には、きっとどれだけ謝っても足りないんだろう。それだけのことをした。
だけど、だからこそ自分が何とかしなきゃいけない。鶴羽を傷つけ五木を巻き込んだ俺にできる、ただ一つのことだ。
鶴羽自身は変わらずそこに立っているだけ。けれどその身体から、黒い霧のようなものが溢れ出だしている。そしてそれは、やがて一匹の黒くて大きな蛇へとその形を変えた。恨縄だ。
五木から聞いた話からすると、最初に見た時とは比べ物にならないくらいに大きくなっているらしい。そしておそらく、力もまたそれに見合ったものになっているのだろう。
その十分に力のみなぎった体を誇示するかのように、伸ばした頭でゆっくりと俺を見下ろす。
身構え、攻撃に備える。わずかな間静寂が訪れるが、それも長くは続かなかった。それまでゆっくりとしていた恨縄の動きが一転し、その巨体に似合わない俊敏さで俺を襲ってくる。
けれど、その攻撃は当たらない。妖怪としての力を使った俺は、自身が風になったようなな速さで、右に左にその身をひるがえす。恨縄は続けざまに首を伸ばしてくるけど、それを全てかわしていく。そうしていくうちに、次第に自分の姿が変わっていくのがわかった。手や足に細かな羽毛が生え、髪の色がそれらと同じ白へと変化する。人間の姿から、妖怪の姿へと変貌していく。
目を逸らしたくなるような、自分のもう一つの姿だ。だけど今はこの姿と力を存分に使おう。
戦える。攻撃をかわしながらそう判断する。鋭い牙や、丸太のような胴体から繰り出される攻撃は確かに脅威だ。けど妖怪の姿となった今の俺には、それを凌げるだけの速さと身のこなしがあった。
それと、もう一つ。
恨縄の方に手を突き出すと、解き放つようなイメージで力を込めた。途端、構えていた手の平から、圧縮された空気が一気に押し出され、恨縄の巨体を押し返した。
自分の意思で風をおこし、それを自在に操る。この姿とともに父親から受け継いだ力だった。それは扱い方次第では、たった今恨縄を押し返したように、突風で巨大なものを動かすことも、あるいは刃のように風圧で物を切り裂くことだって可能になる。
ずっと呪っていた姿と力だった。この姿を見るたびに、何度もその羽を引きちぎりたい衝動にかられた。
けれど今、俺は自らの意思で妖怪になる。
倒れ込んだ恨縄だったけど、すぐに半身をおこすと再び攻撃態勢に入る。その大きさに見合うだけの頑丈さはあるようだ。それでも、手ごわくはあっても、決して勝てないような相手ではなかった。
問題は……
一瞬、恨縄の尻尾の先へと目をやる。後ろへと伸びたその先は、まるで吸い込まれるように鶴羽の体へと繋がっていた。
この戦いにおける一番の障害。それは、恨縄が鶴羽に取り憑いているということだ。
通常、妖怪に取り憑かれた人間は、取り付いている妖怪を倒すことで自然と解放される。だけど今回は、取り憑いていた時間が長かったのか、両者の繋がりが強くなりすぎていた。
強すぎる繋がりは互いの肉体にも影響を及ぼす。もしこのまま恨縄を倒してしまったら、その影響で鶴羽も無事ではいられなくなる。鶴羽に取り憑いている以上、迂闊に攻撃はできなかった。
何とかする方法はあった。けどそのためには、鶴羽の近くまで行かなければならない。
もう一度、それぞれの位置を確認する。かわし続けるだけならなんとかなる。けれど無理に鶴羽に近づこうとしたら、その隙を突かれるかもしれない。
闇雲に仕掛けても危険が増えるだけだ。攻撃をかわしながら、相手に隙ができる瞬間を待つ。
何度目になるだろう、なかなか攻撃が当たらないことに苛立ったのか、恨縄の動きが大きくなる。身体全体がバネになったかのようにしなり、その丸太のような巨体で押し潰そうとする。
まともに食らえばひとたまりもない。けどその分隙も大きかった。俺は横へと跳躍すると、紙一重のところでかわしながら、思考はすでに次の行動へと移っていた。
着地すると同時に鶴羽のそばまで一気に駆け抜ける。
(いける!)
触れられる距離まで近き、手を伸ばす。けれど触れようとしたその瞬間、伸ばした腕は鶴羽本人によって掴まれた。
「っ!」
掴まれたその手は、俺の腕を食い込むように握ったまま離れない。その力に思わず目を見張った。一瞬で腕を掴みとった動きも、握り締めるこの力も、とても普通の女の子に出せるものじゃない。これも取り憑かれた影響だろう。
彼女の意識がすでに恨縄の支配下にあることは分かっていた。それでもその虚ろな様子から、これほど俊敏な動きができるとは思っていなかった。
腕を掴まれたままの俺に、恨縄が迫ってくるのが見えた。なんとか鶴羽の手を力ずくで引きはがしはしたものの、その時間が致命的な遅れへとつながった。
「うわっ!」
鞭のように唸った体がぶつかり、俺の体が宙を舞う。全身に強い衝撃が走って、一瞬世界が暗転した。
自分が地面に叩きつけられたのだと気づき、それから遅れて痛みが湧きあがってきた。
何とか体を起こそうとしたけど、相手がそれを待ってくれるはずもなく、とどめを刺そうと近づいてくるのが見える。
早く立ち上がらないと。そう思ってもうまく力が入らない。その時、恨縄めがけて何かが飛んできた。
それは恨縄の顔へと命中し、地面に落ちる。見るとそれは学生鞄だった。
いったい何が?
驚いて鞄の飛んできた方に目をやると、屋上入口のドアが大きく開かれていた。
そしてその前には、息をきらせながら立つ五木の姿があった。
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