第51話 戻らない

 目の前に立つ朝霧君は、穏やかな表情を浮かべていて、だけどそれはどこか作り物のように見えた。

 私を怖がらせないようにと思ったのか、その姿が妖怪から人間のものへと変わっていく。


「どうしてこんな所にいるんだよ。それも、母さんまで一緒に」


 朝霧君は困ったような顔をしながら、決して私と目を合わせようとはしなかった。


「決まってるでしょ。迎えに来たのよ」


「……この辺りは、妖怪の住処になってる。早く帰った方がいい」


 声を震わせる私とは対照的に、朝霧君はあくまで落ち着いた調子で話す。だけど、まるで話が噛み合っていない。


「朝霧君も一緒に――」

「母さんにも、無茶はしないでと伝えてほしい」


 遮るように言うその様子は、まるで話しをする気は無いと言外に伝えているようだった。

 その声は淡々としていて、表情もいつの間にか、感情を押し殺したような固いものへと変わっていた。


 そして、私の返事を聞こうともせず、黙って背を向ける。このまままともに話さえしないまま、またどこかに行ってしまうのだろうか。


 やっと見つけることができたのに、こんなに近くにいるのに、目の前にいる朝霧君がとても遠くにいるように感じる。それがとても悔しくて歯がゆかった。


「応えてよ!」


 たまらなくなって、力一杯叫んだ。静かな森の中に、私の声だけが響いた。


「さっきから、私の話なんて聞こえてないみたいな顔して。一緒に帰ろうって言ってるのよ。ちゃんと答えなさいよ!」


 一方的に叫ぶ私の姿は、みっともなく見えるかもしれない。だけど今はそんなことどうでもよかった。叫びながら、大声を出しながら、閉じられている心のドアを叩くように言葉をぶつけた。


 朝霧君は何も言わずに、しばらくの間ただそれを聞いていた。だけど叫び続ける私を見て、とうとう根負けしたようにそっと呟いた。


「俺は、戻らない」


 小さく届いたその言葉には、はっきりとした拒絶の意思があった。それを聞いて、今まで張り上げていた声が止まった。


「簡単なことだよ。妖怪の姿になって、二度と人の姿にはならない。そうするだけで、俺は人の世界からいなくなることができる」


 そう言った時、朝霧君の表情にほんの少しだけ苦痛の色が浮かび、またすぐに元に戻った。


 予想していた答えではあった。だけどいざ突きつけられると想像以上に堪える。そんなことをしたら、誰も朝霧君の姿を見ることも、声を聞くこともできなくなる。それは今朝霧君の言っていた通り、人の世界との完全な決別を意味していた。

 胃がきゅっと締まり、小さく手が震える。


「どうしてそんなこと言うのよ」


 やっとの思いで声を絞り出す。それを聞いて、朝霧君は申し訳なさそうに言った。


「別に、妖怪の世界に行きたいって訳じゃない。だけど、ずっと思ってたんだ。人で無い俺が、人のふりをしながら、人の中で生きていく。そんなの、間違ってるんじゃないかって」


 その姿は、まるで自分を責めているようにも見えた。


「でも、半分は人間でしょ。だったら、いたっていいじゃない」

「母さんから聞いてる? 体を壊すようになったのは、妖怪の子である俺を宿したのが原因だって」


 ここに来る途中、確かにそう言っていた。けれど、それはちゃんと受け入れていたことだとも言っていた。


「でもそれは、朝霧君自身が何かしたわけじゃないでしょ。朝霧君のお母さんだって、そんなふうには思ってないわよ」


 朝霧君のお母さんは、きっとその事に何の後悔もしていない。でなきゃ、病院を抜け出してまで朝霧君を探しに来ようなんてしないはずだ。


 けれど、朝霧君はそっと目を伏せながら言った。


「そうかもしれない。俺も何度もそう思った。でも駄目なんだ。母さんが体調を崩すのを見るたびに、見舞いに行くたびに、もし俺が普通の人間だったら、こんな事にはならなかったのにって、やりきれない気持が大きくなっていくんだ」


 まるで、懺悔をしているかのようだった。


 朝霧君は、毎日どんな気持ちで病院に通っていたんだろう。献身的に、家族だからと言っていたその行動が、今の彼を見ていると、まるで償いのようにも見えてくる。

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