第44話 そして、いなくなる


「どうして!」


 もっと鶴羽と距離を置くべきだった。その無情ともいえるセリフを聞いて、気がついたら私は叫んでいた。たった今好きだと言ったその口で、どうしてそんなことが言えるんだろう。

 けれど朝霧君がどうしてここまで頑なになるかなんて、考えてみればわかる事だった。彼がこんなにも鶴羽さんを、いや、人を拒絶する理由は、多分一つしかない。


 朝霧君は私に向かって、ゆっくりと右手を伸ばす。その形が、目の前で見る見るうちに変わっていく。人間のものとは違う異形の腕、妖怪の腕だ。いつの間にかその背中には再び翼が生えていて、朝霧君の姿は完全に妖怪のものへと変わっていった。


「───っ!」


 それを見て、思わず身を固くする。もちろん、朝霧君は他の妖怪とは違うし、なにより身を呈して私を助けてくれるような人だ。怖いことなんて何もない。そんなの分かってる。だけど──


(なんで? どうして私、震えてるのよ!)


 長い間染みついた妖怪への恐怖が、意識とは無関係に彼を拒絶する。人とは違うその姿を見たとたん、体が勝手に震えだす。


 屋上では、あの状況を何とかするために夢中になっていたから、まだ平気でいられた。たけどいざこうして向き合ってしまうと、他の妖怪達を見た時と同じように恐怖を感じてしまう。

 

 そんな身勝手な自分に、嫌悪感すら覚えてくる。


「これが理由だよ。人でない俺が、人の近くにいちゃいけない。誰かの想いに応えるなんて、できるわけがない」


 人間と妖怪の間に生まれた子。多分それが、朝霧君が鶴羽さんから、いや、全ての人から距離を置こうとしていた理由なのだろう。


「ずっとそう思っていたのに、それでもどこかで、誰かとの繋がりが欲しかった」


 鶴羽さんや相良君と仲が良かったのも、きっとどこかで、誰かとの繋がりを欲しがっていたからだろう。

 それはそうだ。誰とも繋がることなくずっと一人でいる。そんな孤独な思いをして、平気なはずがない。

 だけど朝霧君は、とても悲しい顔で断言する。


「でも、それは間違いだった」

「そんなこと……」


 朝霧君の言う事を否定したくて口を開く。けれどそれに続く言葉が出てこない。私にはそれを否定することはできなかった。


 そんなことないなんて、月並みな言葉を並べることはできる。けれど、今の彼の姿に怯え、体を震わせている私が何を言ったとしても、きっとその言葉には何の力もない。


「怖がってもいいんだよ。俺はそういう存在なんだから」


 朝霧君は優しい顔で私を気遣いながら、そんな悲しい事を言う。

 そして再び顔を伏せると、くるりと回って私に背中を向けた。それから、わずかに振り向くと、小さく言った。


「五木、怖い思いをさせて、ごめん」


 その言葉は、巻き込んでしまったこと、自分が人ではないと隠していたこと、どちらに向けての謝罪なのだろう?

 顔は見えなかったけど、そう言った朝霧君は泣いているようにも見えた。


 私が怖がることで、彼をまた傷つけてしまった。その事実が胸に突き刺さる。

 朝霧君は廊下の窓を開くと、そのまま背中の羽を大きく広げ、羽ばたいた。


「待って!」


 とっさに叫び、手を伸ばした。朝霧君がこのまま遠くへ行って、二度と戻ってこないような気がした。

 この時ばかりは、震えることを忘れた。体に勝手にしみ込んでいた恐怖心は消え、ただひたすらに遠ざかって行く朝霧君を追いすがった。


 だけど、全ては遅すぎた。


 朝霧君は伸ばした手に触れることも、声を聞いて振り返ることもなく、そのまま窓の外へ、その向こうにある空へと舞い上がった。

 翼に打たれた風が、窓から顔を出す私の頬を叩く。遠ざかっていくその背中に向かってもう一度声を上げたけど、それも風の音によってかき消される。

 空を舞う姿がだんだんと小さくなっていく。もうどれだけ手を伸ばしても、叫んでも、届くことはないだろう。


 私は、伸ばしていた手を力なく下ろした。


 空の向こう、朝霧君の姿はもうどこにも見えなかった。

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