第32話 妖の名は
ホームルームが終わると同時に、直前から握っていた鞄を肩に掛ける。放課後を告げるチャイムが鳴り終わるころには、私は教室から出ていた。
急ぐ理由はただ一つ、朝霧君と顔を合わせたくなかったからだ。
鶴羽明菜のことが頭から離れず、胸の中では未だ彼女に対する罪悪感が渦巻いたままだった。
いっそのこと、振られたこと自体には私は関係ないと開き直ろうとも思ったけど、そう簡単に割り切れるものでもない。
果たしてこの事を朝霧君にも話した方が良いのか、それさえもわからない。そんな状態で朝霧君と顔を合わせるのが嫌で、午後からはずっと距離を置いていた。
だけど、昼休みから今までの間はたまたま近くに寄らなかったと言えば何とかなるけど、放課後はそうはいかない。今日もまた、帰りは途中まで送ってもらうことになっていたのだから。
スマホを取り出して、朝霧君宛てにメールを打つ。
『用事があって急いでいるから、今日は送ってもらわなくても大丈夫』
もちろん本当は用事なんて無い。嘘をつくことに抵抗はあったけど、今は朝霧君と会ってもどんな顔をすればいいのか分からなかった。
蛇の妖怪の事も心配だったけど、しばらくは姿を見せていないからきっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。
念のため、帰り道で朝霧君と鉢合わせすることのないように、校舎の中を歩いて時間をつぶす。その一方で、そんな事をしてまで避けようとしている自分が嫌だった。
いったい私は何をやっているんだろう。
渡り廊下を抜け、部室棟へとさしかかる。文化系の部室が並び、普段の放課後ならワープロ部や珠算部の部室から、キーボードやそろばんを弾く音が聞こえてくるのだけど、今はテスト前ということで静かなものだ。
その時、その静かな廊下に突如電子音が鳴り響いた。私の持っているスマホの着信音だ。
ポケットから取り出してみると、発信は朝霧君だ。
(どうしよう)
正直なところ、今は電話に出ても話し辛い。だけどもしここで出なかったら、朝霧君は間違いなく心配するに違いない。
迷った私は、結局通話ボタンを押した。普通に受け答えできるか不安はあったけど、余計な心配を掛けたくはなかった。
「もしもし、朝霧君?」
緊張を悟られないように電話に出る。
「五木、今電話大丈夫?」
「うん。ごめんね、ちょっと急ぎの用があったから」
また、私は嘘をついた。ばれるんじゃないかと不安になるけど、朝霧君はそれに気づいた様子もなく、声を落として言った。
「五木が言っていた、黒い蛇の妖怪。正体がわかったかもしれない」
「本当!」
思わず声をあげる。話しづらい気持ちは未だあるけど、あの蛇の情報ならぜひとも聞いておきたかった。
「あれは『
「恨縄?」
名前を聞いて、オウム返しに言う。
聞き覚えの無い名前だ。とはいっても、一つ目小僧やろくろ首といったメジャーな奴ならともかく、今まで見てきた妖怪の名前や種類なんてほとんどわからない。
朝霧君はさらに話を続ける。
「ノートに書いてあったのをそのまま読むけど、恨縄は見ての通り蛇の妖怪で、普段は一人の人間を執拗に襲う事はない。だけど……」
そこで一度言葉が途切れる。普段は、という事は、中には例外があるのだろう。私は黙って次の言葉を待った。
「恨縄は、たまに人間に取り憑くことがあるんだ。そうなると、取り憑いた人が持っている、恨みや嫉妬といった思いを吸い取って力を蓄え、体も大きく膨らんでいくんだ。そして、恨みの対象になっている相手を襲う。恨みが晴れるまで、何度でも」
ごくりと唾を飲み込む。もしその通りだとしたら、私が二度も襲われたのは、誰かから恨みを抱かれていたのが原因という事になる。
確かに、あの影のように黒い体と燃えるような赤い目は、怒りや憎しみといった負の感情を連想させた。
「取り憑かれた人に心当たりは無い?もしそんな人がいるなら、その……五木にあまり良い感情を抱いていない人ってことになる」
「私を恨んでる人って、ハッキリ言っていいよ。でも、あんな目に遭うくらい恨まれる覚えなんていくら何でも無いわよ」
そりゃ、私だって人から恨みを買っていたとしてもおかしくはない。だけど恨縄に襲われた時には、命の危険すら感じた。いくらなんでも、そこまでされるくらいの強い恨みを買っているとは思えない。
けれどそれを聞いて朝霧君は続けた。
「初めは、ほんの小さな恨みや嫉妬かもしれないんだ。けど、恨縄に取り憑かれた人間は、本人の意思とは関係なく、次第に負の思いが強くなっていって、やがてはその感情に支配される。最後には相手への恨み以外何も考えられないくらいに」
それは、取り憑かれた人もまた被害者なのだろう。恨みや嫉妬に取り込まれて、それだけに囚われてしまう。襲われるのも怖いけど、そんなふうに心を壊されるのもまた恐ろしい。
けれど、小さな恨みでもいいとなるとそれはまた問題だ。殺されそうなくらいの恨みならともかく、小さな恨みなんていつどこで買っているかわからない。
けど、そこまで考えた時、一人思い当たる人物がいた。もし恨縄が取り憑いたというのがその人だとしたら……
「五木? 聞こえてる?」
「あ、うん。聞こえてるよ」
はたして朝霧君にそれを伝えるべきか迷った。思い浮かびはしたけど、その人だという確証は何も無い。それにもし想像した通りの相手だとしたら、なおさらそれを朝霧君に話すのはためらわれた。
考えを巡らせていたところで、校舎内にチャイムの音が響いた。急に聞こえてきた音にびっくりしながらも、私は電話の向こうの朝霧君に言った。
「ごめん、わからない。心当たりがあったら連絡するわね」
そう言って半ば強引に通話を切る。私の事を思って掛けてきてくれたのに失礼だとは思うけど、今はこれ以上朝霧君と話を続けたくはなかった。
通話の切れたスマホを見ながら、嫌な汗が流れている事に気付く。
これでよかったんだろうか。もっとちゃんと相談するべきだったんじゃないか。思考がぐるぐると回って、しばらくの間そこから動けなかった。
さっきまで響いていたチャイムの音も既に止んでいて、校舎には元の静けさが戻っている。だけどその時だった。
……………………
校舎のどこかから、何か変な音が聞こえた気がした。周りを見回すけど、廊下には誰もいない。気のせいだろうか?
ゾクリと、なぜか嫌な予感がして背筋が縮んだ。再び耳をすませ、周囲の物音に気を配る。
…………………
また聞こえた。それも、今度はもっとはっきりとだ。それは、重い何かが擦れるような音だった。
嫌な予感、いや、これはもう確信だった。擦れるような音はしだいに重みを増して、ますますはっきりと聞こえるようになる。
(逃げよう)
気が付けば私は廊下を蹴っていた。近づいてくるアレは恨縄だろうか。それは分からないけど、危険な物だというのは本能で理解できた。今でまで妖怪にひどい目にあわされ続けてきたからこそ、鍛えられた第六感。それが、逃げろ逃げろと大声で叫んでいる。
だけどどれだけ走っても、擦れるような音は一向に離れることはなく、それどころかだんだんと距離が近づいているのが分かった。階段を上り、角を曲がったところで足が止まる。行き止まりだ。
急に、背後からしていた音が止み、辺りが静かになる。助かったのだろうか?
いや違う。音が消えた代わりに、背中にはっきりと何かの気配を感じた。間違いなく、それは今、私の後ろにいると分かる。
ゆっくり、恐る恐る振り向くと、やはりそれはいた。
闇夜よりもさらに濃い漆黒の鱗に、燃えるような赤い目を備えた蛇、恨縄だ。
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