第33話 逃げてほしいのに
「―――っ!」
悲鳴を上げそうになり、だけど震える唇から声が出ることは無かった。
目の前にいるのは、確かに恨縄だった。けれどその大きさに、私は自分の目を疑った。
最初に恨縄を見た時、その全長は数十センチという小さなものだった。次に見た時は、一メートルくらいの大きさに成長していた。そして今その大きさは、それからさらに三倍はあるかという大蛇へと変貌していた。
取り憑いた人間の恨みや妬みといった感情を吸い取り、その力を得て大きくなっていく。そう朝霧君は言っていた。その結果がこれなのだろう。
しばらく姿を見せていなかったのは、その間により多くの力を蓄えるため。あるいは、私が一人になる時を待っていたのかもしれない。
真っ黒な体からチロチロと舌を出し、ゆっくりと私との距離を詰めてくる。すぐに飛びかかって来ないのは、慎重になっているのか、はたまた余裕の表れだろうか。
その迫力に、声を上げることもできずに後ずさるけど、間もなく壁に突き当たる。完全に追い詰められていた。
ここから逃げる唯一の通路は恨縄によって塞がれている。一応、その体と壁との間に走りぬけられるだけの隙間はあるけど、近づいたらきっと、その瞬間に襲われてしまうだろう。
でも、それさえ躱すことができたのなら、あるいはどうにかなるかもしれない。
躱せるかどうかなんて分からないし、その後全力で走ったとしても、本当に逃げ切れるという保証はない。それでも、今あいつから逃げるにはそれしか可能性が無かった。
体の震えを止め、顔を上げ、恨縄の姿を見据える。
じっと相手の出方をうかがって、行動へ移るタイミングを計る。
距離を、動きを、視線を読む。
恨縄がさらに距離を縮めてきたその時、私は小さく息を吸うと、勢いよく床を蹴って駆け出した。
突然の動きに虚を突かれたのか、恨縄の動きが一瞬止まる。けれど、すぐに私に向かってその首を伸ばしてきた。大きく開かれたその口には、二本の鋭い牙が見えた。
(避けないと!)
とっさにジャンプして、それをかわそうとする。この一撃を受けてしまったら、もう逃げることなんてできないだろう。あらかじめ警戒していたのが功を奏したのか、すぐ近くまで迫った牙は、あと数センチというところで空を切った。
避けることができた。狙い通りにいったことに思わず高揚する。後はこのまま全力で逃げるだけだ。だけど、再び駆け出そうと足に力を込めようとした瞬間だった。
恨縄は驚くほどの俊敏さで身体全体をしならせ、鞭のようにその尾をぶつけてきた。今度は、避けきれないほどの速度で。
鈍い音と強い衝撃が走り、視界が揺れる。気がつくと私の体は宙を舞い、床へと叩きつけられていた。
「…………っ!」
一呼吸置いて痛みがこみ上げてくる。胸のあたりを強く打ったようで、呼吸がままならない。ましてや、逃げるなんてとてもできそうになかった。
倒れた私に、ゆっくりと恨縄が近づいてくる。やろうと思えばいつでもとどめは刺せるはずなのに、あえて時間をかけるその様子は、まるでいたぶるのを楽しんでいるかのようだった。
痛みが消えない中、それでも何とか体を起こそうと手足を動かす。だけど、たとえ痛みをこらえて立ち上がれたとしても、逃げられないのなら無駄じゃないか。そんな考えがよぎって、力が入らない。
(私、どうなるのかな?)
恨みを持った相手を襲うと言うけれど、具体的にどんな目にあうかまでは聞いていない。けど、決して軽いものではないだろう。肉を裂かれるか、骨を折られるか、あるいは命を取られるか……
諦めたくはなかった。今まで妖怪のせいで、何度も怖い目にあった。家族を失った。そして今も、こうして危険にさらされている。そんな、どうしようもない理不尽さに抗いたかった。
体はまともに動かず、逃げだせる手立ても浮かんでこない。それでも、このまま何もせずに終わりを受け入れたくはなかった。
その時、辺りに声が響いた。
「五木!」
急に聞こえた自分の名前に驚きながら顔を上げる。そこには、朝霧君が驚いた表情でこっちを見ていた。
「どうして……?」
朝霧君は驚く私のそばへと駆け寄ると、手をつかみ体を持ち上げた。
「電話からチャイムの音が聞こえてきたから、気になって探してたんだ。五木こそ、帰ったんじゃなかったのか?」
「それは……」
すぐに返事ができない。まさか、朝霧君を避けるために嘘をついたとは言えない。けれど朝霧君はそれ以上追及することなく、庇うように私の前に立ち、じっと恨縄の姿を見据えた。
恨縄は私達からから僅かに距離を置いているけど、何とでもなると思っているのか、ここから立ち去ろうとする様子はない。
さっき見せた俊敏な動きと、受けた一撃の重さを思い出す。あの怪物に襲われたら、きっと朝霧君も無事では済まないだろう。
「……逃げて」
震える声で訴えた。危ないと思ったら逃げる。朝霧君は、そう私と約束したはずだ。けれど彼は、立ったままその場から動こうとしなかった。
(どうしてよ)
このままじゃ、朝霧君まで危険な目にあってしまう。この状況で何もできないのが歯がゆかった。
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