第42話 彼女の記憶(後編)
美術室の場面は、突如として終わりを迎えた。
鶴羽さんが出て行ってすぐ、突然時計の針が勢いよく回り出し、目まぐるしく場面が変わっていく。いくつもの季節や場面が、流れるように私の意識の中へと入ってくる。
その中心にいるのは常に鶴羽さんだった。ということは、やっぱりこれは彼女の記憶なのだろう。そして鶴羽さんの見つめる視線の先には、いつもに朝霧君の姿があった。
二人はそこまで頻繁に言葉を交わしていたわけじゃない。朝霧君にとってそれは鶴羽さんだけに限らず、周りからどこか距離をおいているようだった。
それでも、朝霧君を見るたびに、たまに言葉を交わすたびに、彼女は胸を高鳴らせていた。
彼女が朝霧君のどんなところを好きになったのかはわからない。何かきっかけがあったのか。優しげな表情に引かれたのかもしれないし、あるいは単に顔が好みだっただけかもしれない。
それでも、鶴羽さんが朝霧君のことを本気で好きだったという事実は、彼女の記憶とともにしっかりと私の中にも入ってきた。その思いが叶わなかった時、彼女はいったいどんな気持ちだったのだろう。
見慣れた校舎へと場面が移る。それは、私たちの通う高校の片隅だった。二人とも、いつの間にか高校生になっていた。
「このあいだの返事、聞かせて」
彼女の声は震えていた。顔を赤く染め、祈るような気持ちで言葉を待っていた。
朝霧君はわずかに逡巡した後、口を開く。
「……ごめん」
ただ一言、けれどはっきりと告げた。
鶴羽さんの瞳に、涙がたまっていくのが見えた。
「……私じゃ…だめ?」
朝霧君は困ったように視線をそらして、目も合わせないまま静かに伝える。
「他に好きな人がいるんだ。だから鶴羽とは付き合えない」
涙が頬を伝った。
(違う!)
声にならない叫びを上げた。それは彼女をあきらめさせるための嘘だということを、私は知っている。
胸が痛んだ。動悸が激しくなり、熱を感じる。辛さと切なさと悲しさが胸を満たしていく。彼女に同情したのか。それとも記憶と一緒に感情まで私の中へと流れ込んできたのかはわからなかった。
痛む胸を押さえながら、いつの間にか自分に体があることに気づく。
ふっと、世界が色をなくし、辺りが光に包まれた。
夢が終わるように、世界が消えていく。光は一層強くなり、やがては私自身も光に包まれていった。
(私、どうしたんだろう)
薄れていた意識が、だんだんとはっきりしてくる。気を失う前の記憶が頭に浮かぶ。
(そうだ、屋上から落ちたんだ)
だけどその割には痛みをまるで感じない。体全体が、暖かな感触で包まれている。
ふと、手が何かに触れた。光を感じ、目を開く。
最初はぼやけていた景色が、しだいに鮮明になっていく。
「五木!」
すぐ近くに朝霧君の顔があった。私はそれを、仰向けになって眺めている。
そこでようやく、私は自分が朝霧君に抱きかかえられていることに気づいた。
「なっ!?」
男の子に抱きかかえられているという事実に驚き、思わず声を上げる。
「ごめん。怖いだろうけど、少しじっとしてて」
朝霧君はそう言って私を抱えなおすと、視線を下へと向ける。つられて私も視線を下げると、二人の足からはるか離れたところに地面が見えた。
私達は宙に浮いていた。そして再び視線を戻した朝霧君の背中から、白い大きな翼が生えていることに気づく。
自分が、やはり屋上から落ちたんだと理解する。朝霧君はその翼を使って、落下する私を受け止めたんだろう。
抱きかかえるその両腕は、さっきまでと同じく細かい羽に覆われている。背中の翼とあわせて、改めて彼が人間でないということを思い知らされた。
「怖いだろうけど、今は掴まっていて。すぐに下すから」
朝霧君はそう言って翼を羽ばたかせると、私を抱きかかえたまま屋上まで舞い上がった。
屋上に立ち、そっと私を下す。いったい私は、どれくらいの間意識を失っていたのだろう。とても長いようにも感じたけど、朝霧君の様子からすると、実際の時間はほんの一瞬だったのかもしれない。
それでも、足に伝わる地面の感触は随分と久しぶりに思えた。
屋上の隅へと目をやると、そこにはさっきまで恨縄に取り憑かれていた鶴羽さんが、静かに横になっていた。
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