第40話 消えゆく蛇

 私が投げた鞄は恨縄へと命中し、なんとか朝霧君から気をそらすことができた。朝霧君もそれに気づくと、私の姿を見て目を丸くしていた。


「五木、どうして……」


 驚きながら声をあげている。私がここにいることが信じられないといった様子だ。


「あいつは俺が何とかするから、五木は逃げて」

「何とかなってないじゃない!」


 朝霧君の言葉をかき消すように叫んだ。だけど自分でもわかるくらい、その声は震えている。


「そんなふうにやられて、怪我して、そんなんじゃ任せられないじゃない」


 辛辣に言い放ったその声が、手が、足が、全身が震えている。押しつぶされそうな恐怖を抱いたまま、私はここにいた。

 だからこそ、あえて激しく悪態をぶつける。そうでもしないと、せめて放つ言葉だけでも強くしないと、今にも恐怖に負けて崩れ落ちてしまいそうだったから。


「私だって命がかかってるんだから、協力させなさいよ」


 その言葉は、自分自身に言い聞かせる言葉だった。怖がりで臆病な私は、精一杯の虚勢を張る事でしか、そんな自分を押さえこむことはできなかった。

 それでも、震える足でここまで来た。


 私の言葉を聞いて朝霧君が立ち上がった。まだ動けるみたいだ。それを見てホッとする。

 それと同時に、恨縄の体が私へと向く。本来の標的である私が現れたことで目標を変えたみたいだ。

 体をしならせながら、こっちに向かって這ってきた。身が竦むのをこらえて身構えたけど、それを庇うように朝霧君が立ち塞がる。

 だけど動けはしても、決して痛みが無いわけじゃないだろう。慌てる私に、朝霧君は冷静に言った。


「任せて」


 恨縄が攻撃に移る直前、朝霧君は跳躍しながらそれをかわすと、そのまま恨縄の体へと覆いかぶさった。

 暴れる恨縄を、朝霧君は力ずくで上から無理やり抑え込む。体の大きさからいって、単純な力では両者の差は歴然だ。それでも朝霧君は、必死で恨縄の巨体にしがみ付きながらその動きを封じている。


「五木、俺が渡した魔除けのお守り、まだ持ってるか?」


 恨縄を押さえつけたまま、朝霧君が叫んだ。前に朝霧君がくれた、魔除けの紙人形。私はポケットに手を入れ、それを取り出す。


「それを鶴羽の体に押し当てて。早く!」


 詳しく聞きたかったけど、そんな暇はなかった。今はまだ何とか恨縄を押さえ込めてはいるものの、それも時間の問題だろう。それに、さっき受けた痛みも残っているのだろう。その顔には辛そうな表情が浮かび、残された時間は長くないというのが分かる。


「わかったわ!」


 意を決し、鶴羽さんに向かって走り出す。だけど彼女は既に私を、私の手に握られた紙人形を注視していた。明らかに警戒されている。

 さっき見た彼女の動きは、普通の人間のものじゃなかった。下手に押し当てよう手を伸ばしても、きっとその手を掴まれるか、簡単にかわされてしまうだろう。

 彼女の元まであと数歩。そのほんの少しの間に考える。どうすれば、今の彼女にこれを押し当てることができるのかを。


 あと一歩、私はとっさに身を沈めると、自身の体を抱きかかえるように丸めた。そしてそのままスピードを緩めることなく、体ごと彼女にむかってぶつかっていった。


 この行動は予想していなかったのか、正面からまともにタックルを受けるという形になる。

 激しくぶつかった私たちの体は宙を舞い、折り重なるようにフェンスへとぶつかった。

 この方法は、私にもダメージが大きかった。頭がくらくらして、全身が痛む。だけどこのまま倒れこんでいる暇はない。痛みをこらえながら、握った紙人形を鶴羽さんに向かって押し当てた。


「うああっ!」


 これまで一言も言葉を発さなかった彼女から。初めて声があがる。その様子に、思わず大丈夫かと朝霧君の方に目をやると、そこにいた恨縄もまた、苦しそうに暴れていた。


「そのまま押し当てて!」


 朝霧君の声が飛び、夢中でその言葉に従い紙人形を当て続ける。すると彼女の体から、黒い霧のようなものが噴き出てきた。


 なんとなく、それが恨縄が今まで蓄えていた力なんだと理解する。

 鶴羽さんの全身から噴き出て、次々と散っていくその霧は、最初こそ私の体をも覆うくらいの量だったけれど、次第にその勢いが小さくなっていく。それと共に鶴羽さんの、鶴羽さんに取り付いている恨縄のあげる悲鳴からも力が失われていく。

 そして、とうとうその全てを出し切った。


 それと同時に、今まで鶴羽さんの体と繋がっていた恨縄の尻尾が、弾かれるように彼女の体の外へと飛び出てきた。

 これが、取り憑いていた恨縄を追い出す手段だった。

 取り憑いていた鶴羽さんと切り離されたことで、恨縄の力も大きく失われたようだ。いつの間にか、大きさもさっきまでの半分以下に縮んでいる。


 けれどそんな状態になってなお、恨縄は足掻くのをやめなかった。

 小さくなった体を利用して朝霧君の手からすり抜けると、そのまま一直線に私の方へと向かってきた。


 逃げようして立ちあがったけど、足がふらついて思うように動かない。いろんなことが一気に起こりすぎて、既に気力も体力も限界だった。


 逃げられない。そう思った私の目に、飛びかかってくる恨縄の姿が映った。口を大きく開き、牙をつきたてようと迫ってくる。


「五木から離れろ!」


 けれどその直後、朝霧君が叫び声と共に起こした風が、恨縄を止めた。

 竜巻のごとく渦巻いたその風は、力の大半を失っていた恨縄の体を包み込み、刃のように切り裂いていった。


 全身を切り裂かれた恨縄は、倒れ込み苦しみながらのたうち回る。切り裂かれた個所から黒い霧をふきだし、鱗がボロボロと剥がれていった。傷口はやがて全身へと達し、その体は四散するように、崩れた端から消えていく。

 そしてついに最後の時が来た。削り取られるようにその体積を小さくしていった恨縄の体は、弾けるように崩れていく。


 終わるんだ。

 その様子を眺めながら安堵する。


 そのとたん、気が緩んだせいか、再び足が崩れ視界が揺らいだ。全身から力が抜け、フェンスへともたれ掛かる。正直なところ、立っているのも辛い。


 その時だった、全身を引き裂かれ、最後の時を待つだけだと思われた恨縄が、もはや首だけになった体で、私の方へと飛んできた。

 残った首も無数の傷を負い、この瞬間も削り取れられていくように、みるみる小さくなっていく。既に誰かを傷つけられるほどの力は残っていない。

 けれど、同じく力を失った私の体を、フェンスの向こう側に押しやることはできた。


 消滅する直前、もはや蛇としての形も失い、黒い霧と化した恨縄は、私の体を持ち上げるように浮かびあがらせた。

 私も最後の力を振り絞って、手足を振りまわしながら抵抗したけど、それはむなしく空を切るだけだった。


 世界がスローモーションのようにゆっくりと動く。朝霧君がこっちへ駆け寄ってくるのが見え、恨縄が完全に消滅していくのがわかった。

 そして、自分が屋上から投げ出されていくのをゆっくりと感じ取る中、消えていく恨縄の最後のかけらが私の体へと入り込んでいった。視界がぼやけて、全ての音が聞こえなくなる。

 私の意識は静かに失われていった。

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