第8話 自転車の荷台で

 明かりの少ない夜道で、朝霧君はゆっくりと自転車を漕いでいる。その後ろにある荷台に、私は静かに腰掛けていた。


 あの後、顔の泥を落とし服についた汚れを払って、なんとか落ち着く事ができたけれど、右足の痛みは依然として引かないままでうまく歩く事が出来なかった。

 朝霧君に手を貸してもらって何とか道まで引き上げてもらったけれど、このまま足を引きずって帰るのかと思うと気が滅入った。


「歩くのが辛いなら、送って行こうか?」


 そんな私を見て朝霧君が言う。見るとそばには朝霧君の物と思われる自転車が置いてあった。たしかに荷台に乗せてもらえるのならありがたい事ではある。

 けれど、わざわざそんな事してもらうのは申し訳ないし、それ以上に気まずいという思いが先に来る。


「いいよ。家、近くだから」


 そう言って立ち上がったけど、一歩、また一歩と、歩くたびに足に痛みが走った。


「やっぱり痛むんじゃないか。いいから乗れ」


 朝霧君は心配そうにそう言うと、私に向かって自転車を突き出し、座れと言わんばかりに荷台を叩く。少し強引ではあったけれど、その表情から本当に私の事を心配してくれているんだとわかった。


 気まずい気持ちに変わりはない。それに一度は断ったし、いまさら頼るのには抵抗がある。けれどこの足で家まで帰るのは思った以上に大変そうだった。

 それに、誰かにそばにいてほしいという思いもあった。妖怪に襲われたショックがまだ完全には抜けきってなくて、一人でいるとまた体が震えだしそうになる。こんな時、誰かがそばにいてくれるだけで少しは不安が和らぐものだ。

 どうしようか迷った。迷ったけれど、結局は朝霧君の好意に甘える事にした。


「よろしく、お願いします」


 変な緊張のせいか、なぜか敬語になってしまった。こうして私は朝霧君の自転車で家まで送ってもらうことになり、今に至る。




 ちらりと横を見ると、自転車を漕ぐ朝霧君の背中が見える。私が落ちないように気を使っているのだろう、その速度はゆっくりだ。

 すぐ隣にあるその背中は、私との身長差以上に大きく見えた。

 自転車を漕ぎ始めてからしばらくたつけれど、相変わらず二人とも無言のまま、目の前をただ夜の景色だけが通り過ぎていく。

 そんな状態を先に破ったのは朝霧君だった。


「何があったんだ?あんなところで」


 背中を向けているからその顔は見えないけど、どうやら不思議がっているようだ。確かに、今の私の有様を見れば何があったのか聞きたくもなるだろう。だけど本当の事を言うわけにはいかない。妖怪に襲われていたなんて言ったら、変なやつだと思われるのは目に見えている。


「あのへん、地面がぬかるんでいたから、つい足が滑ってそのまま下まで落っこちちゃった」

「そんなになるくらいに?」


 朝霧君はきっと怪訝な表情をしているに違いない。

 わかっている。ちょっと滑って転んだくらいでこんなになるのは無理があるだろう。けれど、うまい言い訳が思いつかない以上、このまま押し通すしかなかった。


「私がドジだって言いたいの?」

「いや、そう言うわけじゃ……」


 言葉に怒気を含ませて言うと、朝霧君は押し黙った。朝霧君が変に思うのは当然だろうし、フリとはいえこの状況で私が怒りを向けるのは理不尽だけど、この話題を終わらせるには仕方がない。


「朝霧君こそ、どうしてあそこにいたの?」


 今度は私が逆に聞いてみる。朝霧君は私とは違う中学校だったので、家はこの辺りではないはずだ。この近くにはショッピングセンターがあり、学校帰りにそこによる人も多いから、朝霧君もそうなのだろうか?

 けれど、朝霧君の口から出てきた言葉は意外なものだった。


「見舞いの帰り。近くの病院に、母親が入院しているんだ」


 朝霧君の言う病院は私も知っていた。大きな病院ではないけれど、家から近いこともあって、風邪をひいたり体調を崩したりした時には利用していたし、お婆ちゃんも時々そこに通っている。


 よく見ると自転車のかごには、学校指定の物とは違う、麻でできた鞄が入っていた。ふっくらと膨らんでいるところを見ると、多分着替えなどが入っているのだろう。


「じゃあ、さっきのタオルも?」

「新しいタオルを持って行ったから、今まで使っていたのを持ってきた」


 言われて思い出す。確かにさっき顔を拭いたタオルは、すでに誰かに使われた形跡があった。


「あ、人が使った後のは嫌だったか?悪い、そこまで気が回らなかった」


 朝霧君はそう言って謝ったけれど、私にしてみればどうにも的外れだ。特別汚れていたわけでもないし、人の親切に文句を言うほど捻くれてもいない。もっとも、最初差し出された時はつい心ない事を言ってしまったけど。

 それよりも気になったのは入院という言葉だった。


「お母さん、入院してるんだ」

「身体が弱くて、少し前から。大きな病気ってわけじゃない」


 朝霧君はそう言うけれど、それでも家族が入院となるとやっぱり心配だろうと。毎日こうして通っているのだろうか。


「他の家族の人はどうしてるの?」


 お見舞いの帰りと言ったけど、お父さんがいないのが気になった。仕事が夜遅いのかもしれないし、朝霧君と日ごと交代で通っているのかもしれない。けれど、そこまで考えた時、朝霧君は言った。


「父親は亡くなってるんだ。家族は母一人」


 私は言葉に詰まった。知らなかったとはいえ、うかつに聞いたりしてはいけなかったかもしれない。私も、両親のことやお婆ちゃんとの生活について、考えなしにあれこれ聞かれたのなら良い気分はしないだろう。


「ごめん」


 自分の無神経な言葉を反省しあやまったけど、朝霧君は気を悪くした様子を見せることなく言った。


「……何が?」


 それだけ言って、それ以上は何もなかったように流した。それは、気にしないでいいという、彼なり気づかいなのだろうか。


 また沈黙が流れる。このままずっと黙っているのも感じが悪い。そう思うのだけど、元々あった微妙な空気に加えてさっきの失態もあって、ますます何を話せばいいのかわからない。

 そう思っていると、またも朝霧君が口を開いた。


「足、まだ痛むか?」


 朝霧君の口数だって決して多くはないけど、もしかすると私と同じように何とか沈黙を避けようと会話の糸口を探しているのかもしれない。

 言われて自分の右足首に目をやる。ぶつけたところは腫れていて、今も熱を帯びている。それでも、荷台に腰掛け、足を浮かしているこの状態なら我慢できないほどの痛みでじゃなかった。


「今は大丈夫」


 小さくそう答える。


「そうか。けど、帰ったらよく診といた方が良い」

「そうね。そうする」


 お互い簡単な言葉を、間が空きすぎない程度で繋いでいく。そうしているうちに、道の向こうに家の明かりが見えてきた。


「私の家、あそこ」


 そう言って指を差す。朝霧君は頷くと、家の前まで来たところでゆっくりと自転車を止めた。

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