第9話 「最低」は、取り消すね

「立てるか?」


 自転車を止めた朝霧君は、そう言って私に向かって手を差し出した。


「うん」


 手を取り荷台から下りると、塀に手をついて身体を支える。ちゃんと立てるかと右足を地面につけてみると、まだ痛みはあるものの、なんとか大丈夫そうだった。

 改めて朝霧君の方へと顔を向けると、黙ったまま私を見ていた。そうかと思うと、急に真面目な顔で頭を下げてきた。


「嘘ついたこと、悪かった。明日、本当の事を話すよ」


 唐突に切りだされたものだから、最初は何の事を言っているのか分らなかった。少し間をおいて、告白を断る際に嘘をついた事を言っているのだと理解する。


「ああいう時、なんて言って断ればいいのかわからなくて、相手の事なんて考えてなかった。五木の言うとおり、最低だ」


 朝霧君も申し訳なく思っていたのだろう。その顔には、激しい後悔の感情が浮かんでいる。

 嘘をついたことを後悔しているのなら、それはいい。けれど、私は不安を抱きながら尋ねた。


「それで、本当のこと言ったとしてどうするの、その子と付き合うの?」

「それは…」


 私の問いに朝霧君は少しの間顔を曇らせたまま押し黙ったけど、やがて首を横へと振った。


「好きな人がいるって言ったのは嘘だし、悪いとも思っている。けど、それでも付き合うことはできない」


 そう言った朝霧君は本当に辛そうで、それでいてハッキリとした拒絶の意志を持っていた。


 やっぱりと思った。嘘をついたことを申し訳なく思うのと、その子と付き合うかどうかというのはまた別の話なのだろう。けれどそうなってしまうと、もし本当の事を伝えたとしても、その子にしてみればもう一度振られてしまうようなものだ。

 それでも、嘘は嘘とちゃんと伝えるべきなのだろうか。朝霧君のした事は不誠実だし、本当の事を伝えることで、糾弾されるべきなのかもしれない。

 それとも、黙っておくことでその子が余計に傷つくのを防ぐのが正しい選択なのだろうか。恋愛に疎い私にとって、どちらが正しいかなんてわからなかった。


 正解なんてわからない。それでも、私は思ったことを口にした。


「言わない方がいいと思う」


 放課後、靴箱の前で相良君に黙っておいてほしいと頼まれた時も、結局はこの考えに至った。もちろん嘘は良くない。最初から正直に誠意を持って断ることができたのならそれが一番良かったのだろう。

 けれど一度口から零れてしまった言葉は、否定や訂正はできても、決して無かった事にはできない。だったらその嘘をつき通して、これ以上相手の子が傷つかないようにした方がいい。それが私の結論だった。


「今更言っても、また傷つくだけだと思う。だったら、言わない方がいい」


 ついでに、相良君からも口止めを頼まれていたことも話した。考えたのは自分だと言って朝霧君を庇ったことも。


「相良は考えてくれはしたけど、それは俺が相談したからで、もし何も案が無ければ何か別の理由を言ってた。だから、相良は何も悪くない」


 互いに何とか友達を庇おうとするその様子に思わず苦笑する。そんな姿を見ると、さっきまで抱いていた不誠実な奴という印象もいつの間にか薄れてしまう。


「わかったわよ。そういう事にしておいてあげるわ」


 少し意地の悪い言い方をしながら、私は冗談っぽく笑った。


「タオル、今度洗って返すね」


 そう言って朝霧君から借りていたタオルを見せる。元々白かったそれは、泥を拭きとったせいで今は真っ黒に汚れていた。

 朝霧君は、自分で洗うから別にいいと言ってくれたけれど、洗うにしても汚れがひどいので他の洗濯物とは分ける事になって手間がかかるだろう。そう思って半ば強引に押し切った。


「それと、送ってくれてありがとう」


 色々あったけど、そこだけは素直に感謝の気持ちを伝える。助けてもらった事は、本当にありがたいと思っているから。


 朝霧君は照れ臭そうな表情をしたけど、そのあと少し迷ったように口を開いた。


「なあ、五木……」

「何?」


 首をかしげながら聞き返したけど、朝霧君の口からそれ以上の言葉が出てくることはなかった。

 かわりにただ一言。


「……いや、なんでもない」


 それだけ言って、再び口を閉じた。


「何よ。言いたい事があるならちゃんと言いなさいよ」


 戸惑いながらもう一度尋ねようとしたけれど、私が何か言う前に、彼は自転車のペダルへと足をかけた。


「いや、本当に何でもないんだ」

「…そう?」


 不可解だけど、たぶんこれ以上聞いてもきっと朝霧君は何も答えてはくれないだろうと、なぜだかそう思った。


「じゃあ、その足、ちゃんと手当てしろよ」


 それだけ言って、朝霧君は一人夜道を去って行った。

 最後、彼はいったい何を言いかけたのだろう。不思議に思いながらも、私は足を引きずりながら家の中へと入って行った。



 玄関の戸を開けると、お婆ちゃんが中から出て来て出迎える。


「ただいま」

「おかえり。ずいぶん遅かったね――――どうしたんだいその格好!」


 お婆ちゃんは、私の格好を見るなり驚いて目を白黒させた。タオルでふき取ったとはいえ、服にはまだまだ汚れがこびりついていたのだ。


「何があったの?怪我は無い?」

「大丈夫だよ。ちょっと転んだだけだから」


 青ざめて心配するおばあちゃんだったけど、朝霧君にも言ったように、ただ転んだだけだと説明する。そんな理由で納得させるには朝霧君の時よりもさらに時間がかかったけれど、最終的にはなんとか信じてくれたみたいで、今後夜道は気をつけなさいと強く注意された。


 そんなお婆ちゃんの様子を見て、心配かけてしまったと反省する。お婆ちゃんは私を可愛がってくれる分時々過保護になる事もある。けれど、それは全て私を大事に思ってくれているからというのは分かっている。 

 余計な心配をかけないためにも、しばらくの間日が落ちてからの外出は控えた方がよさそうだ。


 話が終わると、汚れを落とすためにお風呂へと向かった。制服を脱ぐと、朝霧君から借りたタオル共々、汚れているものを分けた。

 顔や手足についた泥を落として湯船につかると、所々についた細かい傷がしみてきて全身が痛む。それでも、ようやく落ち着く事が出来たと、ほっと一息ついた。


 緊張の糸が解けたせいか、どっと疲れが出てきた。妖怪に襲われた事は何度かあったけれど、今日くらい危ない思いをしたのは久しぶりだった。何とか無事で済んだから良かったものの、もし一歩違っていたらと思うと今更ながら体が震えてくる。


 自転車を漕いでいた朝霧君の姿を思い出す。放課後、話を聞いた時には酷い奴だとしか思えなかった。


 だけど、坂から転げ落ちて困っている私に声をかけ、助けてくれた。

 タオルを貸して、家まで送ってくれた。

 途中、自転車の後ろから見たその背中は、優しく思えた。

 もちろん、朝霧君のしたことを肯定しようという気は無い。だけど…


「最低って言ったのは、取り消すね」


 私は湯船で一人そう呟いた。

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