第6話 突然の危機
英語の宿題を学校に忘れてきた事に気づいたのは、家に帰って鞄を開いた時だった。私達を担当している英語の先生はとても厳しく、さらにタイミングの悪い事に明日は順番からいって私が当てられそうな日だった。
部屋の窓から外の様子をうかがう。時間はそれなりに遅いものの、今の季節日の入りは遅く外はまだ明るい。それに今すぐ学校へ戻れば、何とか校門が閉まるのには間に合いそうだ。
面倒だけれど仕方がない。再び制服に着替えると、夕飯の用意を始めようとしているお婆ちゃんに声をかける。
「学校に忘れ物したから取りに行ってくる」
「今は明るくても、帰るころには暗くなるでしょう。車出そうか?」
お婆ちゃんは心配そうに言うけど、これくらいの時間に一人で出歩く子はいくらでもいる。
「何かあったら携帯で連絡するから大丈夫」
私はそう言って玄関へと向かう。携帯は高校入学を機にお婆ちゃんから持たされたものだ。うちの学校では数年前から学業の邪魔にならないという条件で持ち込みが許可されていた。
「それじゃあ、気をつけるんだよ」
背中でお婆ちゃんの声を受けると、私は赤く染まり始めた道を学校へと向かって歩き始めた。
それから少しして学校に到着する。思ったよりギリギリの時間だったけど、幸い校門はまだ開いていた。急ぎ足で教室へ入ると、時間も遅いため教室には私以外誰の姿もなく、ただ遠くから部活終わりの生徒の声だけが微かに聞こえていた。
机から宿題のプリントを回収し校舎を出ると、すでに日が落ちて外は暗くなっていた。このあたりの道は国道などの一部の広い道を除けば街灯の数も少ない。確かにお婆ちゃんの言うとおり、事故にも気をつけなければいけないような時間だった。
しばらく歩くと大通りを外れ、小さく分かれた細い道へと入る。この道は狭い分車の通りは少ないけれど、それだけ灯りの数も乏しい。わずかに灯る光も、より一層薄暗さを引き立てていた。
このくらいの暗さの道なんてこの辺りでは珍しくもないけれど、それでも自然に歩く足には力が入り、自分でも気づかないうちにいつの間にかその速度も速まっていた。
小さい道だから歩道と車道に明確な敷居が無く、脇にある藪へと落ちてしまわないように気をつけながら、アスファルトで舗装されていない土の上を歩かなければならない。
ふと、何かを踏んだのか、靴越しに妙に柔らかな感触が伝わった。何だろうと思い、頭を下げて地面を見る。
見るとそこには、一枚の布切れが落ちていた。なんだか妙な形で、一見すると人の輪郭を型取っているようにも見える。だけど本来頭があるはずの場所には何もなくすっぱりと切り落とされていて、そのかわり腹の部分に大きな目と鼻と口が描かれ、人間の顔を形作っていた。よく分からないけど何だか不気味だ。
不思議に思いながら眺めていると、急に腹に書かれた目がぎょろりと動くと、私と目が合った。
(まずい、妖怪だ)
私だって何も四六時中妖怪に対して気を張っているわけじゃない。こんな風に完全な不意打ちを食らうこともあるし、そうなると驚いて声だってあげる。
「きゃっ!」
妖怪を見ても気付かないフリをする。そう決めていた私にとってそれは明らかな失敗だった。そして、その反応を妖怪は見逃してはくれなかった。
「なんだ?おまえ、俺のことが見えるのか」
布のような妖怪は驚いたようにそう言うと、その平べったい体をゆっくりと起こしながらじろじろと私を見る。
(気づかれた)
迂闊に声をあげたことを後悔するけどもう遅い。一度気づかれたからには、今更いくら見えないフリをしたって意味は無かった。
ならば何としてでも逃げないと。そう思い、一目散に駆け出した。
走りながらチラリと後ろを見ると、布の妖怪は風に揺られるようにゆらゆらと体をはためかせ、宙を漂いながら私を追ってきていた。
全ての妖怪が目を合わせたらいきなり襲ってくるような好戦的な者ばかりかと言うとそうではない。中にはこちらが見えていることに気づくと、慌てて逃げ出すような臆病なやつだっている。けれどこの妖怪はそうじゃなかった。
私を捕まえようと、妖怪が手を伸ばしてくるのが見えた。振り切ろうと地面を蹴る足にも力がこもるけど、妖怪はその奇妙な動きとは裏腹に一向に引き離されることなく、それどころかどんどん距離をつめられていく。
「―――っ!」
さらに数歩進んだところで、とうとう追いつかれ、足首をつかまれた。急に引っ張られた事で前のめりになり、そのまま声を上げる間もなく地面へと叩きつけられる。
幸い昨日までの雨で土がぬかるんでいたので、それほど痛みはなかったけれど、倒れた拍子に泥が飛び跳ね服や顔に嫌な冷たさが広がった。
とっさに上半身を起こして振り返る。視線の先には、さっきの妖怪がどうやってかその平べったい体で立ち上がり、その手をこちらへ伸ばしているのが見えた。比喩ではなく、本当に布のような両腕が長さを変え、私の方へと伸びてきている。
その不気味な姿に恐怖を感じ、思わず後ずさりしようとしたけど、妖怪の手はそれよりも早く私の両肩をつかむと、その動きを封じた。
悲鳴を上げようとしても、恐怖のあまり口からはかすれたような声しか出てこない。それに、たとえどんなに大きな声をあげたとしても、妖怪が見えない人にとっては何が起きているか理解することもできないだろう。
妖怪の腕から何とか逃れようと体をばたつかせながら必死に抵抗するけど、相手はなおも伸ばした腕を絡ませ、私を離さない。私の動きを封じながら、ゆっくりと体の部分が近づいてくる。
今までにも妖怪に怖い目に遭わされたことは何度かあった。その多くはただ驚かされるだけか、怪我をしてもかすり傷くらいだったけれど、それは全て必死で抵抗した結果、たまたまそのくらいですんだだけだ。今回も無事で済むとは限らない。
私は妖怪を見ることはできても、彼らが何を考え私をどうしようとしているかなんてさっぱりわからない。ましてや対抗できるような力なんて何も無い。できることといえば、無視をし続けることと逃げることだけだ。
妖怪の姿が見える事以外は普通の女の子である私にとって、それはただ恐怖の対象でしかなかった。
妖怪の体が私のすぐそばまで来ると、その腹に描かれていた顔を近づけ、そこにある口を大きく開いた。歯は生えていなかったけれど、そこだけぽっかりと穴があいているみたいに真っ暗な空間が広がっていた。
丸呑みにでもしようというのか。何とか逃れようと必死だった私は、とっさにその顔を思い切り殴りつけた。
「うわっ!」
たまたまうまい場所に当たったのか、妖怪が声を上げたかと思うと体を押さえつけていた腕の力がフッと弱まった。その隙を逃さないよう、立ち上がり逃げようとするけど、慌てていて足がうまく動かない。
ようやく立ち上がる事ができたと思ったら、今度は雨でぬかるんでいた地面を思い切り踏みつけてしまった。その拍子に足がずるりと大きく滑り、大きく体勢が崩れる。
起き上がったばかりだというのに、私の体は再び地面を転がる。さらに運の悪い事に、転倒して勢いのついた体は、そのまま道の脇にある坂へと転げ落ちていっ
た。
「きゃああああっ!」
悲鳴を上げ、再び地面に叩きつけられ、全身に痛みが走る。
それでも何とか逃げようと必死で立ち上がろうとしたけど、痛みで体が思うように動かず、怖さで呼吸さえうまくできないでいた。
もうダメだ。諦めと絶望で頭が一杯になる。妖怪が追ってくるのを見るのが怖くて、顔を上げることもできず、ギュッときつく目を閉じた。
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