第36話 逃げ出した

「何、それ……」


 朝霧君は慌ててもう一度左手を隠すけど、今となってはもう手遅れだ。すでに私の目には、その異常な腕の形がはっきりと焼き付けられていた。

 思えば、今まで尋ねる暇もなかったけど、恨縄から逃げる時、朝霧君がその腕を振るったとたん、突然強風が巻き起こるという不思議な現象が起きていた。それがもし、朝霧君の意思で起きたものだとしたら。

 常識ではありえない不思議な力、そして異形といえるその姿はまるで……


「朝霧君、妖怪……なの…………?」


 呆然としながら、やっとの思いでそれだけを絞り出した。朝霧君の力も姿も、まさに今まで目にしてきた妖怪のそれと同じだった。

 朝霧君は苦悶の表情を浮かべたまま、何も喋らない。

 信じられなかった。いや、信じたくなかった。けれど、たった今目にした事実が、自分の言葉を肯定していた。

 祈るような気持ちで、掠れるような声で言う。


「ねえ、違うって……言ってよ…………」


 答えなんて既に出ているようなものだった。それでも受け入れたくはなかった。せめて朝霧君自身がそれを否定してくれたらと、すがるような気持ちで答えを求めた。


(どうして何も言わないの。ただ一言違うって言ってくれれば、それでいいのに。そうしたら私は、その言葉を信じるのに)


 だけど朝霧君は何も答えずに、静かに視線をそらす。不安はいつの間にか涙となって、目に映る景色を滲ませていった。

 そして、長い長い沈黙の後、朝霧君はついに決定的な一言をつげた。


「俺は……人間じゃない…………」


 あふれた涙が、頬を伝った。それはあまりにも絶望的な答えだった。


 身体が震え、足が崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。もし今膝をついてしまったら、もう二度と立ち上がることができないような気がした。

 必死に俯いていた顔を上げて、朝霧君の顔を再びとらえる。朝霧君もまた、不安と絶望を張り付けたような表情を浮かべていた。


「俺は……」


 そして、その唇が次の言葉を紡ぐ前に……


 私は、全力でその場から逃げだした。


 未だ体のあちこちは痛むし、まだどこかに恨縄が潜んでいるかもしれない。けれどそんなことさえも、もうどうでもいいとすら思った。ただ朝霧君の告げた言葉だけが頭の中で何度も繰り返し響いた。

 後ろから朝霧君の呼ぶ声が聞こえてきたけど、一度駆け出した足は止まらない。何も聞きたくなかった。振り返るのが怖かった。

 耳を塞ぎ、目を瞑り、目の前でおきた事全てを忘れてしまいたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る