第19話 蘇る記憶
我が家では、毎年夏になると家族三人でどこかへ旅行に行くというのが恒例になっていた。
私が中学二年になったその年は、父の運転する車に乗って、隣の県の観光名所を巡るというものだった。
その頃の私は世間一般で反抗期と呼ばれるくらいの年齢で、友達の中にはこの年になって家族旅行なんてという子もいたけれど、私の場合はたとえ両親と衝突したとしても、せいぜい小さな口げんかくらいのものだった。もちろん、この旅行だってとても楽しみにしていた。
来年の夏は私の高校受験に向けて忙しくなるだろうから、この旅行も今年で最後かもしれない。出発前、父はそう言って私をからかっていた。
当時の私にとってそれはまだ随分と先の事のように思えて笑ったけれど、形は違っても、父の言っていた通り、それが家族での最後の旅行になってしまった。
レトロな雰囲気の港町を見て回り、水族館にも行った。有名な神社にも寄って、その時買ってもらったのがあのお守りだった。
旅の途中、どこかへ立ち寄るたびに撮った写真は何枚になるかわからない。夏の良い思い出になるはずだった。
楽しい旅行も終わって、家族を乗せた車は帰路につく。私は後ろの席に座って窓の外を眺めていた。
車は少し前から高速道路へと入っていて、何キロも同じような道が続いている。窓から眺める景色も、道路に書かれた白線や脇に設置されたガードレールが規則的に流れていくだけで、見ていると段々と眠くなってくる。
旅行の疲れもあったのだろう。本格的に睡魔が襲ってきて、ごろんとシートの上に横になった。
「ガソリンが少なくなってきたから次のドライブインによるけど、麻里はどうする? 降りるか?」
父が聴いてきたけど、既に私は半分眠っているような状態なので、いかないと答える。その直後、襲ってきた睡魔に負けて、私の意識は途切れた。
どれくらい眠っていたのだろう。ドライブインはとっくに出た後だったけど、それほど長い時間では無かったように思える。
まだ重たい瞼をわずかに開き、ぼんやりとした視界で前を見る。フロントガラスの先に見える景色に変わりは無く、前の席にいる両親にも変わりはない。
だけどそこでふと、何かの気配を感じた。もちろんこの車には、自分と両親の三人以外には誰も乗っていないはずだ。
それでも、今までにも何度か感じた事のある、言葉では言い表す事の出来ない気配があった。妖怪の気配だ。
妖怪が、この車のどこかにいる。私の頭の中で危険を知らせる警報が激しく鳴り響く。
慌てて車内を見渡すけれど、天井や座席の下を探しても、何もおかしなものは見つからない。
だけど、それでも嫌な予感は消えてくれない。なにしろ妖怪というはどんな姿形をしているかわからず、思いがけない所にも潜んでいる。
「どうしたの?」
私が急におかしな動きを始めたのが気になったようで、母が尋ねてきた。
未だ妖怪の姿は見つからない。ただの気のせいだったのだろうか?
どちらにしろ本当の事を言うわけにもいかず、寝ぼけていただけだと答えて笑顔を作る。
だけどその時、母の顔越しに見たフロントガラスに、黒いシミがついていることに気づいた。
「そこのシミ、いつからあったっけ?」
さっきは見た時は無かったように思うけれど、単なる思い違いかもしれない。というより、そうであってほしいと思い、言った。
けれどそれを聞いた母は不思議そうに答える。
「シミ? どこにそんなものあるの?」
お母さんには見えていない。つまりは妖怪だ。
まずいと思って、どうか今の言葉を妖怪が聞き逃していてほしいと、私が見えている事に気づかないでほしいと、祈るような気持ちになる。
だけど、そんな願いは届かなかった。急にそのシミは形を変えて動き出し、少しずつその大きさを膨らませていった。
シミの事なんて聞かなければよかったと、自分の迂闊さを後悔した。
シミの大きさがサッカーボールくらいになった時だろうか。今までただ不規則に形を変えながら膨らんでいたシミが、急に一つの形を作っていく。
それは、人間の男の顔にも似ていた。だけどその両目はまるで洞のように虚ろで生気がなく、反対に口は今にも噛みつこうかというほどに大きく開かれていた。
それは、私に恐怖を与えるのには十分だった。
「きゃーっ」
いくら見えないふりを、気づかぬふりを通そうとしても、抑えきれない時もある。飛び出した悲鳴に、両親は何事かとこちらを振り返った。
フロントガラスに現れた顔は、さっきまでの虚ろな瞳のまま、ただ口だけが壊れたようにケタケタと音をたてて笑っている。そして、それまで平面だったその顔が、急に立体的になってガラスから浮かびあがってきた。いつの間にか、今までは無かったはずの腕まで備わっている。
腕と言ってもそれが本来備わるべき体は無く、顔の両側に直接くっついている。まるでB級ホラーに出てくるような姿だけれど、現実にそんなのがいたら十分に怖い。
完全にガラスから出て宙へと浮いたその顔は、ゆらゆらと私の方へと飛んでくる。
狭い車内に逃げ場はなく、私はそれを何とか追い払おうと腕を振ったけれど、相手はまるでそれを面白がっているかのように避けながら、狭い車内をあちこち飛び回った。
「麻里、どうしたんだ!」
急に悲鳴を上げて暴れる私を見て、お父さんが運転しながらもなんとか私の方を見る。だけど次の瞬間、飛び回る妖怪がお父さんにぶつかった。
「うわっ!」
声を上げてのけぞったお父さんは、ハンドルを握ったまま大きく体勢を崩す。当然、制御を失った車はあらぬ方向へその進路をきった。
悲鳴を上げる間もなく轟音が響き、強い衝撃が走った。私はその拍子に窓ガラスへと頭を叩きつけられ、そのまま倒れこむ。額に強い痛みを感じ、生温かい感触が広がっていった。
両親は無事だろうか。そう思いながらも、痛みで体を動かすことができない。だんだんと視界がぼやけ、意識も遠くなっていった。
次に私が目を覚ましたのは薬品の臭いのする病院のベッドの上だった。聞けば私は、あの後救急車で病院へと運ばれ、何とか一命を取り留める事が出来た。意識が戻ったのは事故から一日が過ぎた後だった。
ショックを与えないよう気を使われたのだろう。両親が亡くなったと告げられたのは、それからさらに一日後のことだった。
* * *
これが、両親との最後の記憶だった。私の中にある、最悪の記憶でもある。
全てを思い出し終えると、そっと仏壇に向けて合わせていた手を離す。手の平には、いつの間にか汗が滲んでいた。
あの後私はお婆ちゃんに引き取られ、この家で一緒に暮らすことになった。
あれから二年、もうだいぶ慣れたつもりでいたのだけれど、それでもまだ思い出すたびに胸が苦しくなるのは変わらない。
これでも随分とマシにはなっている。事故のすぐ後は、この家に来てしばらくの間は、毎日のように夢で見て、そのたびに涙を流していた。
月日がたつ間に、次第に夢で見る回数も減っていったけど、もし周りの支えがなかったら、きっと私は今も泣いていたんじゃないかと思う。
この一件は、父がハンドル操作を誤ったため起こった事故として処理された。もちろん、本当の原因が妖怪にあるなんて事は誰も知らない。
私はそれが悔しくて、できる事なら声を大にして言いたかったけれど、たとえ言ったところで分かってくれるはずもない。真実は私の胸の中にしまったままだ。
これ以来私は、ますます妖怪の事が怖くなった。元々恐ろしい事に変わりは無かったけれど、これ以降の妖怪の姿を見れば、ほぼ無条件に体が震えだすようになった。
失礼な事は分かっているけど、昨日出会った優しい土地神でさえ、反射的に震えが出てくる。それほどまでに、私にとって妖怪と言う存在そのものがトラウマになっている。
事件を思い出すたびに思う事がある。もしあの時自分が妖怪に気づいてなければ、声を出さなければ、最初から妖怪なんて見えなければ、あの事件は起こらなかったのではないか。両親は死なずに済んだのではないか。
今となっては全て終わった事で、今更そんなことを考えても意味が無というのは分かっている。
けどそれならせめて、この思いを全部誰かに打ち明けたかった。本当の事を分かってくれる人が、一人でもいてほしかった。
茶の間から、朝ごはんができたとお婆ちゃんの呼ぶ声が聞こえた。心に浮かんだ思いに蓋をして、食卓へと向かう。
せっかくだから、今日は両親に出されたものと同じく、ご飯を食べることにした。少しずつ咀嚼していき、淹れてもらったお茶を飲みながら、私は朝霧君の事を思い出す。
自分と同じように妖怪を見る事が出来る彼も、今まで辛い思いをしてきたのだろうか。
怖い思いをしなかったか。人に言えずに苦しくなかったか。聞いてみたいことは山ほどあった。
自分の事だって話したい。今までにあった出来事を話したら、朝霧君はどんな顔で聞いてくれるだろう。
芽生えた思いは、いつの間にか次第に胸の中で大きくなっていった。
私はもっと、朝霧君と話をしてみたいと思った。
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