第31話 彼女は、喜びに満ちた平和を待ち望む。

夕餉を終え、夕焼けが沈んでいく。

夏の太陽が沈んでいく様は、それはそれで物悲しいものだ。


冷酒を飲めるという贅沢を楽しみつつも、袁瑞は最近富に笑顔の増えた『彼女』の方へと視線を向ける。


鎮北大将軍府の居室。

自分の執務室で在り、自分の私室でもあるはずだ。なのに、もはや、姪御の常駐場がここかというばかりに居つかれてしまっていた。


ゆっくりと気を抜こうにも、『彼女』の視線が四六時中。

まるで監視されているのではないか。

いや、間違いなく何かの意図があっての存在なのは間違いない。


意図を聞くべきか、はたまた、敢えて知らんぷりするべきなのだろうか?


迷いつつ、袁瑞は軍師相手に論理で問い詰めることの無意味さを想う。

昨今、先帝のことを想うことがやけに増えた。……皇太子にせよ、皇位に登られるまでは義理の兄との顔も自分には見せてくれていたあの方との思い出。


過去の事ばかり思い出すのは、自分が老人になったからなのだろうか。

まだ、馬を駆り、槍をもち、鎧すら纏って戦場を疾駆する体力はあるつもりだったが……心の方は知らぬ間に老いたのだろうか?


「叔父上? そのように、過去を懐かしみ、因習にとらわれた陋見を美化するかのような御顔をなさるとはいかが為されましたか?」


己の心を的確に読んだかのような言葉だが、最近の袁瑞は無の境地を悟りつつある。

精神修養の重要さ、或いは無我を悟る境地。修養など、と血気盛んな青年時代は鼻で笑っていたが、今となっては心の均衡と平穏の肝要さを痛感するばかりだ。


軽く頭をふる『彼女』をなるべく意識から外しつつ、袁瑞は若かりし頃の快闊だった太祖陛下の心中に思いを馳せる。


戦場を共にし、統一を目前とし、そしてあの方が即位。

そのころ、自分もようやく『実情』について知ることはできた。

緊朝の平和。太祖陛下の抱いていた天下静謐への想いは、王道のそれ。


あの方は、己を殺された。

平和のために、秩序のために、天下万民のために。

ひとえに、新しい時代の礎となる覚悟をお持ちで在られた。


……そのかりそめの平和が、ようやく、結実しようとしているのだ。あまりにも感慨深く、年甲斐もなく涙もろくなってしまう。


まだ、この道を歩き切ったわけではない。千里の道の第一歩を歩みだしたばかり。険しい障害があり、隘路があり、時に絶壁に相対することもあるだろう。


それでも、『軍師共』が壊しつくしかけた天下を辛うじて。ただ、迷うのは……これが真の平和かという一事に尽きる。


蓮氏族が服属を申し出ていることを受けるべきか。いや、厳密に言えば『自分が決める』ことではない。


ことは、天下国家のことであり、自分はあくまでも鎮北大将軍府を預かる現地の責任者に過ぎないのだ。己は仲介者として、これを『受ける』ように上奏するか、握りつぶすかを選びうるに過ぎない。


「叔父上が上奏さえすれば、すぐにでも平和が訪れるかと思いますが」


柔らかで、温かみがあり、それでいて仄かに甘い言葉。囁かれるそれに身を委ねそうになるが、袁瑞は拳を握りしめ、誘惑の毒をはねのける。


「……誑かすな」


「そのようなことは、頭の片隅にもございませんが」


「どうせ、頭の真ん中にはあるのだろう?」


きょとん、とこちらを見つめる『彼女』の顔に浮かぶのは軽い困惑。だが、即座に表情を笑顔に取り繕い直したところを見るに……いや、わからん。軍師と言うのは、表情を如何様にでも取り繕うだから。


「とにかく、だ。はっきりさせておきたい。裏があるだろうと私は疑っている」


じっと睨みつけられた『彼女』は呆れたはてたように目を瞑る。袖に顔を押し付け、微かに目頭を拭う所作の意味はなんなのだ?


「失礼ですが、叔父上はお疲れの模様。ご自分の心も分からない模様でいらっしゃる」


「なんだと?」


いうに事欠いて、と腹を立てる間もない。


「疑っていらっしゃる? 裏があると、確信されているのでしょう?」


軽やかな調子で吐き出された言葉の内容に、袁瑞は言葉を失う。咄嗟に反論しようと思うも、何も言えないのだ。実際、その通り。裏があると確信し、にもかかわらず、魅力的すぎて迷っている。


北部の平穏。なにより、戦時体制の終焉にめどを。


……防人らを故郷に返してやらねばという責任感は膨らむばかりなのだ。部曲の兵はさておくとしても、自分が天朝から預かった7軍は余りにも戦陣が長すぎる。


統一に際し、兵士が必要だった。

かき集められた彼らは、今や、統一の恩恵を味わう権利があるだろう。……その道筋が見えている。


「……毒と承知で、飲むべきか?」


「薬も過ぎれば毒となります。逆に、適量を適切に用いるのであれば……この上ない妙薬となりましょう」


「ほう? 具体的には?」


軽い気持ちで問うたことだが、『彼女』の変化は劇的だった。顔を赤らめ、顔を伏し、恥じらいの表情でこちらをちらりと見やるではないか。

何事か、と訝しむ袁瑞の前で彼女はうっとりとした顔のまま、言葉を紡ぐ。


「平和なのですよ、叔父上!」


「言われずとも、判るが」


いいえ、と『彼女』は力強く袁瑞の口上を遮るや歓喜を語る。


「お笑い下さい、叔父上。私の心、燃え上がる喜びに……形容する術がない程随喜しているのです。平和、なんと、愛おしいことか!」


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