第34話 彼女と袁瑞と兵士の平和

北方の鎮定。

即ち、国境の守りの確立。


それは、防人らが夢に見た帰郷が現実の可能性として浮かび上がる瞬間であった。


「生きて、帰れるぞ」


徴募され、戦地に追い込まれた諸兵の多くが覚悟を決めていた。

どの道、自分は遠く離れた異郷で斃れるのだろう、と。

どれほど上官に恵まれ、どれほど戦の運に恵まれようとも、兵士は死ぬ。


一将功成りて万骨枯る。


どうせ生きては帰れないと諦め、涙を呑み、彼らは兵役についていた。

運が悪かったのだ、と自分に言い聞かせて従軍する日々。

故郷の外が見れ、心を躍らせる驚きが皆無だったとは言わない。けれども、望郷の念はいや増すばかりだ。


若い兵が壮年となり、一勢力に過ぎなかった緊朝が『統一』を成し遂げたとて、兵士らは異民族に対する国境の守りを忘れることができなかった。


統一とは、あくまでも『内側』。

誰もが知っている。覇者とは、所詮、家の中の王様に過ぎないのだ、と。

かつては中つ国にあり、『天下に号令した王者』の国があったという風聞など神話に等しい。


文字が読めるものであれば、青史を辿り神話となってしまった過去の残照を求めることもできるだろう。


けれども、それは士大夫にのみ許される贅沢だ。大半の兵卒にとって、世界というものは閉ざされたもの。将来のことなど、考えようもない。


だというのに、と北部の諸都市で兵士らは何時になく嬉々とした表情で語る。


己自身で禁じていた、その『夢』を。

平和になれば、帰れる日になれば、故郷に戻ることができるはずだ、と。


この時、幸か不幸か、北部にあって軍権を握る袁瑞将軍その人は、兵士の心を良く解する将帥であった。


「……苦々しい限りだ。平和の噂だけで、軍の力が半減している。これが、軍師流の『やりかた』か?」


自室で愚痴をこぼしたとき、袁瑞としては『糾弾』というよりは返答を期待しない独白に近いつもりであった。

姪御殿は、一々、こんな言葉に反応したりはしまい、と。


けれども、予想すればするだけ裏切られる。

軍師は、結局、こちらの意図など介さない。

ただ、自分の好きなように言葉で遊ぶ化生。


「将兵の押し殺していた里心が鳴きだしているのは、人の常でございましょうに」


「……これを、敵が狙ってきたというならば『わかる』。だが、『共同作業』にする理由がわからない」


「純粋に、私は、平和が見たいだけですが」


何気ない口ぶりだが、それはまるで『本心』かのように聞こえて仕方がない。これが、ただの乙女であれば信じられもしよう。


だが見れくれはともかく、中身は開祖が見出した軍師なのだ。叔父としてではなく、国家の大事を預かる士大夫としての袁瑞は決して油断しない。


「平和が見たいだと? 本心から、それを?」


「ええ、叔父上。誓って、平和な世を謳歌したいと願っておりますが」


「……平和になれば、確かに、扱いを見直すことも上奏はできよう。だが、所詮は陛下の御心次第ではある」


「国家を補佐するとまで称えられた叔父上の言葉でしてよ? そうそう、無碍にされることもないのではないでしょうか」


彼女が語るように、自分は名誉と肩書は過剰なほどに恵まれている。北夷服属に際して最大の功あり、として輔国大将軍位。


元外戚とはいえ、皇族でもない軍人が望みうる将軍位としては……殆ど例外的だ。実際の権限には変化がないとはいえ……北部諸州に号令を下す強大な権限は鎮北大将軍、使持節都督のまま。


己の権限が強大なることをしればこそ、しかし、上奏という行為へは慎重さを要するものだと袁瑞将軍は知っているのだが。


「私が上奏するのは叔父としてだ。輔国大将軍としての袁瑞としてではない」


「陛下はさておき、宮中雀がその理屈を理解いたしますでしょうか?」


その質問に対する『正解』を袁瑞も『彼女』同様にほぼほぼ分かってはいるが、敢えて首を横に振ってはぐらかす。


「宮中雀に聞いてくれ」


「では、そこらの雀にでも伺ってみましょう。でも、平和ですよ? ……本当に、平和が訪れる。きっと、それは、とても素敵な日々です。そうに決まっています」


「そうあれかし、と願う。微力も尽くす」


だが、だからこそ、言うべきなのだろう。

平和が戻るならば、と袁瑞は意を決して口を開く。

そろそろ『例外』を終わらせるべきだろう、と。


「お付きの者を増やそう。暫く、大人しくしておくことだ」


「……では、私へ籠の鳥に戻れと?」


言葉に滲む何か。それが、不愉快さを押し殺したものだと袁瑞は目星をつける。どう言いつくろっても、閉門蟄居の類なのだ。


『皇女殿下』に対する微妙な事情と背景を思えば、心が痛まないではないが……姪御とはいえ、これは宗室の問題でもある。袁瑞としては、ただ、勅を本来よりも和らげることしかできぬのだ。


無論、ある程度以上迄は裁量がきくが。


「しいて、とは言えまい。だが、戻ることを強く勧めておこう。陛下の心証にも関わる問題だ」


「では、叔父上。私、おっしゃる通りにいたします」


「何?」


『彼女』はなんでもないことのように、さらり、と言葉を紡ぐ。


「ですから、叔父上のご提案通りにさせていただこうかと。ただ、流石に手慰みの類で詩集を読むなり、刺繍なり編み物をやらせていただければ幸いですが」


じっと凝視し、表情と瞳を見るも柔らかい微笑みに擬した何かが張り付いているだけ。その真意は依然として茫洋としたものだ。


だが、悪い話ではない。

よかろう、と頷ける話だ。

袁瑞は頬の緊張を和らげ、微笑む。


「それぐらいであれば、手配する。気晴らしになるのであれば、楽団の一つもつけてやるが」


「ありがとうございます。ですが、平和という歌に耳を澄ませたいのです。北府におられる限り、週に一度で結構です。お話をさせていただければ」


「是非もない。それでよいのであれば、そうするとしよう」


「約束ですよ? 破ってしまわれたら、私、悪戯も辞しません」

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