第三章 名前のない皇女
第17話 彼女と北蓮会戦
更新2年 夏の某日
緊朝北辺の更に北。
広大な遊牧地において、化生の意志が具現せりし二つの暴力装置が激突する。
火の祝祭日であった。
後世において、北蓮会戦と号される一大会戦。
片方は、草原に覇を唱えつつある蓮氏族が蓮大人に率いられた遊牧騎兵軍。
対峙するは、中つ国の統一を為した緊朝が鎮北大将軍袁瑞直卒軍。
双方、共に総力戦としてなりふり構わずの兵力をかき集めての対決である。
まずもって、袁瑞大将軍の兵力は数・質共に同時代において卓越していた。
部曲の兵、実に3万。数、質共に正規軍すら凌駕する彼らは『騎兵突撃』に立ち塞がれる兵士の中の兵士だった。名門袁家の総力を挙げればこそ、かき集められたといいえるだろう。
加えて、宥めすかし、時に脅迫し、或いは理を説いて動かした諸州の兵が1万。先の遠征時、袁瑞将軍が率いた老兵に比してはるかに精強な兵らである。
極めつけは、僅かに一軍ながら……禁軍5000の動員にまで袁瑞将軍は成功していた。騎兵戦で死活を制する精強な軽騎兵を禁軍衛士らで確保。この一事でもって、袁瑞将軍はついに会戦を決意しえたとまで長らく語られる。
総数、実に4万5千。
この兵力で以て、袁瑞将軍は直ちに断固たる夏季での短期決戦を期す。
夏季遠征の難しさを説く反論を押し切っての出兵である。
電光石火。
兵学の粋たる、速さを追求しての機動戦。
敵の意表を、それが叶わずとも対応に余裕を与えまじとの断固たる進軍。
されども、中つ国の軍にしては驚異的な進軍速度であってすら遊牧民の次元には及ばない。何より、草原は遊牧民の庭なのだ。
強大な外敵の侵入に対し、この日のあることを警戒していた蓮氏族は直ちに即応する。
迎え撃つ蓮氏族は草原の諸氏族を糾合。
中つ国の北進を許すまじと旗を振り、かき集めた諸兵、実に6万。
それは、袁瑞将軍が予見していた数をも大幅に上回る。
大軍と号された袁瑞将軍をも圧倒する数的優勢。
にも拘らず、遊牧民らは敵軍を知るべく無数の斥候を放ち敵情掌握に努める。
結果、情報戦で優位を獲得し得た蓮大人は……敵の速度を逆用した。
速度を重視した進軍ともなれば、どれほど意を配ったところで無理が出る。
特に、索敵には限界が生じるものだ。
馬の脚に任せた移動を行う遊牧民なればこそ、急いた際の陥穽も知り尽くしていた。
焦った者は、眼前の事すらも見えなくなるものだ。
故に、彼らは袁瑞将軍を釣りだすことを決断する。
ここで『雌雄を決する』と誓って。
遊牧民らの初手は全軍の半数で以て敵正面から後退を演出。
数的優勢を敵が確信し、会戦への自信を抱いたところが次の仕掛け。
敵の意表をついて全軍を集結させるや、叩きのめす。
無論、言うは易く行うは難しい。
会戦の場所を読み、機会を逸すことなく適宜に集結。
草原に慣熟した遊牧民とて、大軍でこの機動を為しえるかとは賭けに近い。
にも拘らず、彼らはやり遂げた。
騎兵の脚を活用し、会戦場と見定めた戦場へ複数方面からの急速展開。
会戦直前まで数的劣勢を偽装し続け、完全に緊朝軍の裏をかくことに成功。
数に劣る遊牧民を叩きのめす腹だった緊朝軍は、ついに、会戦開始まで己の数的優勢を疑いえなかったのだ。
かくして、草原を赤く染めるべく4万5千と6万の大軍が正面より干戈を交える。
袁瑞将軍の不覚は『戦略的優位』を過信したことにあった。
会戦を意図しての出兵で企図通りに一大決戦へ持ち込めた、という確信。
手応えを感じればこそ、彼は物事が順調に進んだと過つ。
全てが順調に行くと過信すればこそ、彼は最後の最後で釦を掛け違う。
同時に、蓮大人の失策は『作戦的優位』を過信したことにある。
状況は彼の、彼の軍師の意図したとおりに動いたかに見えた。
だからこそ、彼は会戦における勝利を信じて疑わなかった。
全てが順調に進んでいると信じる点で、彼もまた袁瑞将軍と同じ過ちを犯す。
両軍の将帥は、断じて無能なお飾りなぞではない。
彼らは、同時代において共に練達した指揮官であった。
知恵の限りを尽くし、油断なく策を練り、そして会戦へ臨む。
戦場に身を投じ、采配を振るう瞬間、彼らは全身全霊を戦場に注ぎ込んだ。
だからこそ、戦闘開始と同時に両者は『しくじり』に気が付く。
調和された音楽を奏でるつもりが、酷い不協和音。
天を呪い、吐き気を飲み込み、両者は事態を収拾しようと人の能う限りを尽くす。
結果だけ先に語るのであれば、勝利の栄光は名門袁家の上に輝く。
『袁瑞』率いる袁家の部曲は精強だった。
遊牧騎兵の突撃に耐え、指揮官の号令に乱れることなく付き従う戦争機械。
彼らは、遊牧民の散発的な攻撃を断固たる規律で撃退。
騎兵戦では禁軍と互角以上にわたり合えた遊牧民が、なんということだろうか! ただの歩兵にてこずるのだ。
だが、真の決定打は一つの策だった。
事前に手配されていた離間策により『敵遊民』同士が相撃。
情け容赦ない火計まで猛威をぶちまけるに至り、ついには戦闘継続すら困難になる始末。
入念な戦域機動による数的優勢を確保したにもかかわらず、遊牧民の連合軍はついに数的優勢を発揮することなく戦場を後にする。
青史もまた、袁瑞の采配を勝利として言祝ぐ。
けれども、肝心なのは彼女と彼の物語だろう。
会戦の知らせが飛び込むや、両者は共に椅子を蹴り立ち上がる。
知らせを、結果を、答えを。
待ち望む結末を知らんとし、書簡の封を破った瞬間、彼と彼女の明暗はくっきりと分かれる。
彼は、心からの喝采を叫んだ。
彼女は、心からの呪詛を零した。
それは、彼の勝利なのだ。
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