第18話 彼女と変態

北蓮会戦へ彼女が至る道は……極めて平坦であった。

なにしろ、彼女の行動を掣肘すべき袁瑞将軍その人が枷を緩めたのだ。

厳密に言えば、監督は諦めていない上に『自由裁量』とは程遠いが。


それでも、彼女には十分すぎた。

なにしろ、言葉が使える。


音を使おう。

文字を使おう。

そして、論理を弄ぼう。


知らぬものは、たったそれだけと困惑するに違いない。

軍師を知るものであれば、直ちに腕と口を潰せと叫ぶだろうが。

畢竟、軍師は軍師なのだ。


けれども、軍師の真髄について語れば……『頭』である。

もっと言えば、その『発想』こそが軍師の軍師たる所以だろうか。

常識というのは、一つの道具に過ぎないことを軍師は知悉している。




袁瑞の居室へ礼儀正しく乗り込むなり、彼女は希望を口に出す。


「遊牧民に関する資料を全てください。叔父上、全て、です」


「それならば、勝手に読んだものがあるだろう」


「叔父上の手元にあるもの以外についてです」


さらり、と吐かれた言葉は疑念を裏打ちするもの。

袁瑞としては、ほとほと頭が痛い限りだ。

どうやって読んだのか問いただしたい一方で、答えまいという徒労感も大きい。


「北部諸州にある全てが、私は読みたいのですが」


「……全て?」


「はい、全てです」


平然と口にされた言葉を前に、思わず袁瑞が顔を顰めたとしてたら……礼を失したとは言えないだろう。


簡単に言われた内容とて、文章の量を思えば膨大なことが予見されて仕方ない。


「私は、敵の手足を知らねばなりません。敵の敵を見つけなければなりません。そして、敵の軍師について知る手がかりも欲しい」


「密偵を使えばよかろう」


開祖、太祖の戦いを傍で見ているのだ。

情報を集めることの重要性は、袁瑞とて否定しない。

それが、戦争の肝であるということも知っている。


だが、お二人とてそんなことはしなかったぞという口元までこみあげてきた抗議の言葉を彼女は軽やかに躱す。


「叔父上、貴方は恋をなさったことがないのですね。意中の方を、密偵に探らせるのですか? なんて歪んでいらっしゃる……。性癖を疑います」


「なっ……」


「親族故に内々にしておきますが、叔父上。世間では、それを変態と申すのです。恥ずかしいとは思われないのですか」


咎めるような視線。姪御から浴びせられるには、少々きつすぎる批判の声と相まれば辛いものと化す。


「い、言うに事欠いて……」


「勿論、冗談です」


「おい!」


「単純に、密偵という物見道具を使いたくないのです」


「……理由は?」


「失礼ですが、叔父上は密偵を使って敵情を探られていますよね?」


「当然だな。公言することではないが、子飼いの者を使っている。得られた情報を全てという訳にはいかんが、概略であれば読ませてやれるが」


「拝読させていただきますが、それとは別に『密偵以外』の情報が欲しいのです」


「袁家累代の子飼いだぞ? 言いたくはないが、信ずるに値しないとは……」


「申しませんよ、勿論」


この点で、彼女は袁家をうらやんですらいる。

累代の臣下というものの価値は、情としがらみという縁が忠誠に纏わりついている。

金で買える忠誠心とは、所詮、『ある程度』まで。


袁瑞と異なり、子飼いのないという事実を彼女は噛み締めている。

密偵とても、袁家のソレが劣るなどと彼女は微塵も思わない。

いっそ、自分も欲しいほどだ。


「ふむ。……つまり、密偵ではいけない理由が別にあるという訳か。しかし、全ての情報を集めるとなれば目立つ。敵もこちらを探っているだろうが……」


他では物分かりの悪くない叔父上が、なおも理解に四苦八苦しているのが彼女には不思議だった。

どうして、こんなにも単純なことで惑うのだろうか?


「知らせるのが目的でもなければ、密かに探るのが目的でもありません」


「では、お手上げだ。自分が軍師になれないと再確認できたというべきかな?」


「叔父上であれば、無理をすれば……とも思いますが」


それはさておき、と彼女は切り出す。


「私が知りたいのは、遊牧民族の考え方です。我々の解釈が入った希釈物ではなく、彼らが『どうしたか』という記録が読みたい」


彼女は判じるのだ。密偵は、密偵という一つの経路でしかないのだ、と。

人を一人介すだけで、解釈と言うのは現実から大きく離れていく。

資料とても、記録者という問題はあるが……積み上げれば玉もあるものだ。


故に、彼女は欲する。全てを。


「主旨はわかるが……それだけのために、全ての資料を?」


「それだけ、というのは不適切ですね。さらに言えば、私たちが『どのように』遊牧民を理解しているかについてもです」


敵を知り、己を知り、やっと、『100戦危うからず』。

火遊びをするのだから、火について知っておくべきなのは当然である。

どうして、皆がこんな単純なことをちゃんとやらないのだろうか?


「我が姪御と見て、御忠告しておく。全部読み終える前に、我々の寿命が先に来るだろうよ」


彼女にとって、叔父の言葉は世界の巨大な謎でもあった。

なぜ、そんな算盤になるのだろうか。

別に、全部が全部を自分で読むわけでもあるまいに。


「叔父上、それこそ人を使う時ではありませんか。資料を分類させればよろしい」


「まて、何人を使うつもりだ?」


「口が堅い人間を、10人」


「……認められん。自分の立場をご理解いただきたいものだが」


名前のない皇族という立場。

袁家と宮中の関係性や宮中雀のお喋り。

色々と複雑な事情をくみ取り、彼女は妥協案を口に出す。


「では、読み書きができるものを20名」


「まて、増えているのはどういうことだ」


「終わったら、口封じに彼らの首をはねていただいて結構です。能力よりも数を優先してみたのですが」


ダメでしょうか、という尤もなつもりの意見がなぜか叔父には通じない。

不思議だ。本当に、どうしてこうも分からないふりをするのだろうか。


「……袁家の声望に関わる。信の置ける執事を2人だ。それ以上は、許せん」


「制約が一つ、ですね。叔父上、これは、後に響きますよ?」


戦争という火遊びでは、全ての手段が正当だというのに。


「人を駒とするのも、天下国家に響く。覚えておくことだな」


「……お優しいことでいらっしゃる」


やっぱり、叔父上は少し変だ。

ひょっとして、本当に変なんだろうか……?

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