第14話 袁瑞、石峻の涙を誘う
袁瑞将軍、大勝利!
北部を脅かす邪悪な蛮夷を、人徳と武威を兼ね備えし鎮北大将軍閣下が撃砕!
京師の瓦版辺りは賑やかに騒ぎ、宮中雀は『旧外戚』の専横を叫び、気まぐれな詩人が袁瑞の運命を皮肉に歌う。
もっとも、それは何千里も離れた都の事。
敗軍の軍師である僕が身を置くのは広漠たる大地である。
馬上、僕は悄然と頭を抱えていた。
「な、なぜ……何故なんだ……」
敗北した、という事実は別にどうでもいい。
だって、最初から『勝利』の名前は袁陣営に差し上げるつもりだった。
鎮北大将軍の敵は、その背後にあり。
「僕らが逃げる。袁瑞将軍は勝利によって背後を脅かされる。これぞ、最高に楽ができる上に敵軍の団結を削ぐ最良の策のはず……」
「うん、単軍師。それ、うまく行ってるんだよね?」
「ええ、レンさん。正しくその通りです」
密偵も、内通者も、我々の斥候さえも、その事実を確認している。
袁瑞将軍は『北部の実権を掌握』したうえ、『軍事的成功』という巨大すぎる実績までももぎ取った。
まぁ、軍事的成功の方は虚飾の栄光なんだが……名声と権勢が強まっているというのは揺るがない事実である。
はっきり言って、袁瑞将軍の動向は『そうであってほしいな』と僕が望んだとおりだ。
「計画通りに物事は進んでいます。何度確認しても、その通りなんです」
「なぁ、単軍師。教えて欲しいのは、じゃあ、なんで、単軍師の顔色が糞を飲まされたような顔になっているかってことなんだけど」
「レンさん、表現をもう少し選んでいただけませんか」
僕はこれでも清く正しい士大夫なのだ。
糞を飲まされたことはないし、その予定もなしだ。
でも、機会があれば糞父上を焼く前にやってみよう。
「それはさておき、レンさん。敵には軍師が居るはずなんです」
「ずっと単軍師が主張している『彼女』とやら?」
そうです、と僕は強く首を振る。馬上でなければ、いっそ両手を叩いて強調してもいいぐらいだ。
「敵に軍師がいる。当然、僕と駆け引きを楽しむはずだ」
「……なんでそう断言できるかは分からないけどさ、そうだとしたら、何がおかしいって?」
「こちらが成功しすぎているんです。うまく行き過ぎているという事実が、癪に障って仕方ない」
人目がなければ、爪を噛んで苛立ちを表現したほど落ち着かない。
軍師と軍師が対峙して、片方の思い通りに物事が動く?
それは、宮中雀が正義と道理に目覚める確率なみにあり得ない!
「なぁ、うまくいくことが問題なのか?」
「いえ、それは喜ぶべきです。しかし、理由が分からないのがどうしようもなく気持ち悪い。まるで、変態の相手をしているかのような気分だ」
清く正しい士大夫だっただけに、僕は変態とどう付き合っていいか分からない。
『彼女』の事は知らないが、もしも変態であったらどうしようか。
僕のような真っ当な士大夫的感性はそれに耐えられるだろうか。
いや、僕は『彼女』という軍師に恋をしている。
あばたもエクボと言うじゃないか。
どんな欠点があろうとも、軍師であるという一事で僕の獲物なのだ。
僕の心は、それだけでドキドキできる。
声が上ずって、手が震えて、喉が渇いて仕方がないほどでに。
恋っていうのは、なんと刺激的なんだろうか。
でも、そんな僕でさえも『変態』は少し辛い。
……ああ、そうか。
「袁瑞将軍に、衷心より同情を。……どんな罪深いことをなされば、かのごとき変態を太祖より押し付けられたのでしょうか」
因果応報という言葉があるが、とても信じがたい。
自分の利く限り、鎮北大将軍にして外戚の大権門たる袁瑞将軍閣下は使持節都督に任じられるほどに『信』がおける軍人として知られる『忠臣』だ。
間違っても、咎と呼ばれるべき人格ではあるまい。
僕のように、軍師的に耐える必要もなかろうに。
なのに、きっと、変態に苦しめられているに違いない。
「凄まじきものは、宮仕えですね」
馬上にあると、人は詩的になるのだろうか?
僕は、ただ、ただ、まだ見ぬ『彼女』に振り回されているであろう袁瑞将軍に親しみを覚え始めていた。
仁と憐みの心を併せ持つという点で、僕は士大夫の心を忘れない。
全く、僕の思い煩う相手はなんと我儘なんだろうか。
心臓をつかんで、ちゃんと指導してあげないと。
「単軍師、人に同情できるんなら、私にもしてくれない?」
「僕がレンさんに同情ですか? 何か、問題でもあったのでしょうか。此処暫く、知る限りにおいて物事は順調だったはずですが」
知る限りにおいて、一切の異常はなし。
袁瑞将軍の北伐という重大事を前に、蓮氏族は一致団結しているはずだが。
何か、僕の知らない水面下の動きがあるんだろうか?
「私も、変態に悩まされているんだ」
「なんてことだ。大変ですね。僕の心よりの共感と同情を受け取ってください」
「あー、うん、その、ありがとう」
困ったように頬をかく挙動不審なレンさんへ視線を向けつつ、僕は困惑する。
何だろうか、僕の感知できない不和があるのだろうか?
いや、と僕はそこで首を振る。
これは、彼女の私的なことなんだろう。
蓮氏族の客人に過ぎない僕が、閨閥のことに首を突っ込むのは無礼にもほどがある。
僕の安全に関係ない限り、頼まれるまでは関わるまい。
「いえ、変態に苦しむ仲間です。遠慮なさらないでください。できることがあれば、なんでもどうぞ」
頼まれたら、力を貸しますよ、と僕は士大夫的に確約する。
……そして、同時に誓うのだ。
まだ見ぬ佳人よ。
必ずや、悪行を食い止めて見せる、と。
更新2年 某日
鎮北大将軍、使持節都督袁瑞将軍、北部諸州を監督す。袁、極めて権勢強大なり。しかるに、北伐を断行。万里を騎行し、北夷、大いにこれを恐れ逃散す。鎮北大将軍の武威、天下に轟けり。
更新2年 某日
京師に落書あり。忠なる北部の尉、袁瑞将軍の権勢盛んなるを嘆いたら落書なり。忠、死せるとの風もあり。士大夫、こぞって袁の権限強大なるを上に申し上げるも、上、これを笑って受けず。
更新2年 立夏の祝祭日
使持節都督袁瑞将軍、北部諸州にて募兵せり。私兵を大いに集めんとす。国官ら、憂いるも北部諸州の官庫が開かれり。同時期、袁家の閨閥、大いに兵を募る。
諸人、大いにこれを怪しむ。
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