第27話 袁瑞、発病し、彼女の手綱を手放す。
不惑の賢者とて、惑うことがある。
『彼女』とてもその例外ではあり得ない。
軍師とても、未知の事態には迷い、悩み、そして苦吟せざるをえぬのだ。
化生ではあるにせよ、化生には化生の理屈がある。
まさか、ゲロを恋文の上に吐しゃする人間がいるなど『軍師』だって予想できない訳である。
勿論、相手が『形だけの恋人』を装っていたということは察しが付く。
だけれども、オトモダチからの大切な最初の手紙なのだ。
いや、軍師的には『なかったことにされる』とか『焼き捨てられる』とかならばまだ『予想の範疇』ではある。
けれども、流石の彼女とて『吐しゃ物』で書状をダメにされるとは想定していなかった。
なんとか、大意は読み取れなくもなくはないとは思うのであるが、『文脈や行間』を読もうにも『叔父上のげろ塗れ』である。
乙女的限界をみとめた彼女は、極北を思わせる冷たい目で袁瑞を睨みつけ、ついに文書の往来を検閲付にせよ認めさせた。結果、袁家の意を受けた軽騎兵が蓮氏族の後を辿り、手紙を渡すも……そこから音沙汰が途絶えてしまう。
もう一度、書き直してくれという無体な要求だ。恐らくだが、相手方は『馬鹿にしている』と受け止めた可能性が濃厚。普通、そうだ。
或いは、こちらがなにがしかの策を起動していると誤解した可能性も否定はできない。
なにしろ、『彼女』の相手は軍師である。同一内容の手紙をもう一度出せ、という言葉だけで幾通りもの計略や謀略を想起することだろう。
誤解されるのは、本当に悲しい限りだ。
確かに、彼女自身もオトモダチのしゃれこうべに興味は尽きないが……ただの文通にだって大いに興味津々である。
どうすれば、と思い惑う中で彼女は『邪魔な連中』の存在も思い出す。
状況を踏まえれば、叔父袁瑞を適度に苦しめる権利があるのは自分だけだろう。
ささやかな意趣返し兼報恩となれば、彼女にとっては一石二鳥だ。
そういう訳で、一日千秋の思いで日々を過ごす彼女は『恋する乙女』の如く、伝令の騎兵が入城するたびに叔父の居室を訪ねては『無言』で叔父を見つめ続けた。
袁瑞将軍にとってみれば、正しく悪夢のような日々である。
よもや、というべきか、嘔吐したほど衝撃を受けた恋文がもう一度届くことを天に願う日が訪れようとは!
つくづく数奇な命運の星のもとに生まれたことを呪いつつ、日々を針の筵が上で過ごすかの如き将軍の表情は日に日に険しくなっていく。
病臥するのではないか。
そんな心配や期待をされていると分かってなお、袁瑞将軍は原因を周囲に語らうことすらできぬ。
もとより、『彼女』という事情の特殊性があるのは否めない。
だが、士大夫として言えるわけがないだろう! よもや、姪御の私信を盗み読みし、嘔吐し、睨みつけられているなどと!
大々的に公言できる士大夫が居るとすれば、それは、もはや士大夫ではありえない。
かくして、袁瑞将軍が発病したという風聞は急速に四方へと拡散していく。否定するべく積極的に姿を見せようにも、『表情の険しさ』はごまかしようがないのだ。
北夷を大いに打ち破り、塞外の民すら恐怖する将軍が倒れたらば?
同時に政敵らの活動も活発となっていく。ただでさえ、鎮北大将軍は要職だ。ここに健康問題が絡んでくると、さしもの名家中の名家たる袁家といえども苦しい。
ただでさえ、今代の陛下とは直接の血縁関係にない『元外戚』に過ぎないのである。先帝の義弟にして信を置かれていたという事実とて、政治の世界においては単なる歴史と化しつつある。
一門を背負う袁瑞将軍なればこそ、ここで耐える必要があることを熟知していた。
悪意に晒され、嫉妬を抱かれ、そして足を引っ張られる経験を経れば、彼のような人格者でさえも『覚悟』は備わるのだから。
だけれども、心の鎧を纏いつづけるのは酷く疲れる。
ただでさえ弱っている胃腸にとって、この戦いは過酷すぎた。
ついには三食の基本が塩粥になる始末。
耐えに耐えたが、いくらなんでもこれは酷い。ついに音を上げた袁瑞将軍は、ある日、居室で姪御に苦情を素直に口に出してしまう。
その瞬間、袁瑞は心の底からしくじりを悟らされる。自分の苦言を耳にし、花咲くが如く微笑む彼女の笑顔は不気味極まりないのだから。
「ええ、叔父上には病気になっていただく必要がありましたから」
「……なんだと?」
咄嗟に人を呼ぶか、と迷いかけた袁瑞に対して『彼女』は淡々と言葉をつなぐ。
「だって、そうじゃないと叔父上は『殺されて』いましたからね。……結果的に、私は私信に吐しゃする叔父上の御身を守って差し上げたのですよ?」
「……そこまで、私を誰が疎んでいるというのだ」
「他者の排斥に個人的な感情を理由として求めてしまうのが、叔父上の美質であると同時に弱点ですね」
「必要が、私を、排斥する動きを創ると?」
「叔父上は、失敗過ぎしました。北部での軍事行動が二度。そして、二度目で『敵一翼』を全て燃やし尽くす始末」
ああ、と袁瑞もそこで『彼女』と言わんとすることを悟る。
なるほど、形式的には自分が勝者と呼ばれ続けているのだ。
理解してしまえる程度には、頭もある。
「ははは、それを、世間では『成功』と呼ぶのだから世の中はわからないものだな」
「はい。ですから、ちょうどよかったです。もう少し、苦しんでいただければ私としては楽しかったのですが」
「……なに?」
「私への恋文に吐しゃ物をぶちまけられた乙女ですので」
まぁ、と彼女はそこで言葉を継ぎだす。
「叔父上の病気という噂で、敵の軍師も動いているようです。再度、手紙を出すには好機ではありませんか?」
「接触か。……仕方ない。やってくれてかまわん」
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