第四章 僕と『彼女』の文通

第25話 彼女は乙女的に糾弾する

袁瑞将軍の胃腸は、過酷な戦いを生き抜いてきた。

酷使され、散々に悩みで傷みつけられなお屈さず。

さりながらも、受けた傷もまた小さくはない。


ただでさえ、政治的爆弾でもある『彼女』の脅威は巨大だ。

北方にいれども、中原の動向でシクシクと胃を痛める羽目にもなる。

権門、巨大な名家なれば、当主の気は休まらない。


だからこそ、心に鎧をまとう必要があった。

己の感情を押し殺し、一個の歯車として権力を行使。

武官として、文官として、個人ならざる全体の奉仕者としての義務遂行。


とはいえ、袁瑞という個人は人間だ。

袁瑞将軍という役割の仮面と鎧を四六時中纏い続けられるほどに強くはない。

時に、ほんのわずかでもいいので……息を抜きたくなってしまう。


余暇は、最高の一瞬だった。

ゆっくりと、ゆっくりと夕焼けを眺めながら心を楽にする。

己というものが、柔らかな一時を満喫することで……痛む胃も落ち着いてくれるのだ。


その日、その瞬間、悲鳴を上げる胃腸を楽にしようと、心の鎧を脱いだことが致命的だった。

無防備なところへ、もう一匹の軍師とかいう畜生の『恋文』が襲来だ。


ご丁寧にも、見るからに厄に塗れている。

紙からして極めて上質。袁瑞自身、丁寧な文章を送るときに使うような代物。

墨に至っては、色合いがおかしい。恩賜の品と言われても、納得してしまうほどだ。極めつけは滲みの模様。……古墨だろうか? 


俄かには信じがたい代物だが、何より袁瑞の胃を痛めるのはそれら『道具』に負けるどころか使いこなす書き手の存在だ。

名蹟かと見間違わんばかりに淡麗な筆跡。

これが『姪御殿あての恋文』でもなければ惚れ惚れと見惚れてもいい程だが……こんな北辺で、こんな筆?


当たり前だが、袁家に由来する他の女性へ向けたものであれば。或いは京師で目の当たりにしたのであれば『気障な奴め』と苦笑して忘れ去ることもできたかもしれない。


けれども、こんな、こんなところに。

存在を厳重に伏している『彼女』あてに。

鎮北大将軍府という軍事拠点に不釣り合いなほど華やかな書状が。


『蓮氏族』の一味から投じられるのだ。


開封するまでもなく、見ただけで辛い。

まして、無礼とは思いつつ開封すれば文面は『彼女』へ恋する貴公子のそれ。

書き手本人は軍師的に『彼女』を馬鹿にしているのであるが、流石に軍師ならざる延髄にその底意までは読み取れない。


はっきりいって、袁瑞はもう、限界だった。


否、彼はそれでも抗った。抗い、英雄的に、雄々しく、断固たる決意で踏ん張った。

けれども、力及ばなかったのである。無防備なところへ襲い掛かってくれば決壊は必然である。


権門の当主として、常に人の視線を意識せざるをえぬ袁瑞の『面子』をして、胃腸の限界を取り繕うのは不可能だった。


何たる悲劇だろうか。

彼の努力は、余りにも無情な軍師二匹の横暴には耐えかねた。

先帝もまた、或いは、そうなのか……と思う間もない。


それは、あまりに急激な変調だったのだ。

何かがおかしい、と気づいたときには手遅れ。

最初に彼が感じえたのは、形容しがたい気持ちの悪さ。


思わず、呻く。

忠僕が何か慌てたように駆け寄ってくるも、それすら意識からは抜け落ちる。

こみ上げてくるなにか。



彼は、気が付けば自然と口を押えていた。

手紙を放り投げていたことなど気づく由もない。

否、不快感が余りにも強烈に過ぎる。


胸にこみ上げてくる異物感と向き合うも時すでに遅し。


忠僕が、慌てて器を差し出すも間に合わず。


鎮北大将軍、使持節都督、そして都では目下『強大すぎるのでは』と宮中雀に囁かれている袁瑞将軍、破れる。


彼ですら、彼の胃腸ですら、この気持ち悪さには打ち勝てなかった。

ありてに言えば、袁瑞将軍は、盛大に胃の中の吐しゃ物をまき散らす。

比較的小食となっていたこともあるが、それとて、慰めにはならないだろう。


名門の当主ですら、この過酷な責め苦には耐えられなかった。

だが、哀れむべきことに……袁瑞の不幸はここで終わらない。


否、そればかりか……災厄は始まったばかりなのだ。


何故か? 答えは簡単である。

軍師と軍師は惹かれ合うもの。

とどのつまり、悪い連中は悪い仲間が一杯なのだ。


袁瑞将軍の背中を忠僕が慌ててさすり、僅かに主従の眼が内向きになった瞬間。


軍師の直感だろうか。

或いは、恋する乙女の運命だろうか。

はたまた、悪意ある天帝の悪戯なのか。


ふらり、と。


お供を振り切った『彼女』が袁瑞将軍の居室へ入り込んでいた。


無論、『彼女』は叔父が苦しむ姿をみて喜ぶ趣味はない。

けれども、叔父が放り投げた紙の束に気が付く程度には軍師的観察眼の持ち主である。

呻く叔父と手紙の内容を結び付けられる頭脳も備わっていた。


そうして、英邁な彼女の頭脳はたった一つの真実を鮮やかに見抜く。


「叔父上。最低です」


ずばり、『彼女』は乙女として断固たる戦闘態勢のまま袁瑞将軍を睨みつけていた。


「私宛ての私信をのぞき見るだけでも……その、変態性が伺われて仕方ありません。その挙句に、勝手に読んで、上に吐しゃ物をぶちまけるなど……」


顔に涙を携え、はっきりと被害者という態を装った乙女たる『彼女』は叔父の所業に対して露骨なまでの嫌悪を滲ませ吐き捨てる。


「オトモダチからのお手紙なんですよね? それは、私のです。返してください」

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