第12話 袁瑞、春眠を覚えず
春眠暁を覚えず。
古今東西の場を問わず、誰もが肩の力を抜く時期である。
夕べに寝酒をし、ゆっくりと酒精を楽しむ贅沢などもいいだろう。
或いは、少しばかり良い茶葉で一服するのも悪くはない。
新茶にはまだ少し早い季節なればこそ、昨年の茶葉を想い、新年の茶に思いを馳せる最高の知的で文化的で文明的でもあり、そして至高の時間を満喫することができる一時だろう。
にも拘らず、北辺には春の訪れを喜ばない例外が少なくとも三人は居た。
一人は、士大夫である。
間違いなく、士大夫だ。
本物の士大夫だ。
鎮北大将軍、使持節都督袁瑞将軍。
彼は、農繁期の訪れという事実に頭を抱え兵事について思い悩み続ける。
戦乱を抑え込みたいが、時期が不味すぎる、と。
もう一人もまた、信じてはいる。
己が士大夫であると。
当人は断固たる次元で信じてはいる。
緊朝が三公、石家の三男坊こと石峻ならぬ単石。
実のところを言えば、彼は春を愛していた。
ところが、今となっては敵軍師の存在に吐き気を覚えて安眠どころではない。
最後の一人は、厳密に言えば士大夫ではない。
なのしろ、彼女は『彼女』なのである。
士大夫如きと並列に並べるのも不敬だろう。
とにかく、彼女も春を呪う。
春のぬるま湯は、彼女の鋭利な琴線にとって生ぬるい。
……しいて言えば、彼女は馬肥ゆる秋の方が好きだ。
とかく、三者三様な訳である。
そんな中、真っ先に動いたのは石峻であった。
自身の天幕に積み上げたのは、聞き取りと調査をまとめた竹簡の数々。
膨大な量なのだが、竹簡がかさばるということを踏まえれば……実のところ、蓮氏族の協力を得たにも係わらず、袁瑞将軍の陣営について僕が知り得たことは多くない。
けれども、『必要かつ十分なぐらい』には知れた。
だから、これまでの協力を謝してレンさんに僕は頭を下げる。
「レンさん、レンさん、お手伝いありがとうございます」
「貰うものは貰ってるから、気にする必要はないけどさ。単軍師が何をやっているのか、ちょっと聞かせてもらっても?」
軍師的に考えて、軍師のやっていることを聞くとか……となりかけるも僕はそこで冷静さを取り戻す。
レンさんは軍師じゃないんで、たぶん、ここは士大夫的に対応するべきだろう。
「勿論です。私は、味方に隠し事なんてしませんよ!」
「……それ、絶対腹に一物あるやつの台詞」
「悲しい誤解です。本当にひどい誤解だ。私、本当に味方へは『心から丁寧』なんですよ? 今の今だって、蓮氏族のために知恵の限りを振り絞っています」
「親父殿もそれは認めるけどなー。単軍師、ちょい胡散臭いし」
「我が不徳のなすところですね。それでは、誤解を解きほぐすためにも、僕の考えをきちんとご説明いたしましょう」
カラリ、と机の上に布の地図を広げて僕は説明を始める。
単純に言えば、蓮氏族に頼んで調べてもらった袁瑞将軍の動きの追跡だ。
どこそこに行った、どこそこで何をした、誰それと……等々。
一見する限り、『北部諸州』を鎮護するべき鎮北大将軍の仕事を真面目にコツコツと行っているというように見えるだろう。
だが、軍師分析眼があれば袁瑞将軍のちっぽけな偽装は一瞬で見抜ける。
「後で蓮大人にご相談かなとは思っていたんですが……これ、袁瑞将軍は攻めてくる腹を決めていますね」
「討伐軍がやっと重い腰を上げるって? まぁ、なんだ。それぐらいは単軍師に指摘されずとも、私らだって普通に察しがつくんだけど」
「……これは一本取られましたね」
苦笑しつつ、僕は心中で小さく付け加える。
『出兵する腹がなかった袁瑞将軍が、何故、決定を翻したのか』こそが肝要なのだが。
そして、今の僕にはその根底にある意も察しが付く。
恐らくだが、直感だが……軍師的直感だが。
袁瑞将軍側の『軍師』も、僕の存在に気が付いたのだ。
そうだとすると、説明が余りにも簡単となる。
単石という仮名まで割れたかは、知らない。
石峻という本名にまでたどり着かれるはずはないだろう。
けれども、袁瑞将軍に『蓮氏族に軍師がいる』と警告できる『奴』はいる。
まぁ、そんなことを説明する道理はないので僕は笑って話題を逸らすが。
「ともかく、そういうことなので袁瑞将軍のところにいる『彼女』に注意しつつ、我々も出兵の支度をしないといけません」
「ちょいまち」
「なんでしょうか、レンさん」
「その、『彼女』ってのは?」
ああ、と言葉足らずだったことを僕は悟る。
「これは失礼。その……袁瑞将軍の動きを見ていて気付いたんです」
「策略とか、動向が女性的だと?」
「いえ、そういう性差別は軍師的には無能中の無能がやることなんで、僕はやりません」
ぽかん、としたレンさんが本心から分かっていないならば、彼女は信用できる。
演技であれば、何れ、殺し合うことになるかもしれないが。
いや、蓮氏族とは上手くやれているし少しは丁寧に説明しておくべきだろう。
「袁瑞将軍は、恐らく何かを隠しているんです。以前にも申し上げましたが」
「ああ、なんか、都の政治がらみとかだろ?」
「ええ。てっきり、皇位継承のゴタゴタなんで庶子でも? と考えたんですが……ひょっとするとこれが『軍師』かもしれないと思いまして」
根こそぎ軍師を首ちょんばしていた太祖陛下。
その外戚というか、忠実な臣として知られる袁瑞将軍だ。
間違っても、『自前の軍師』を残しちゃいないだろう。
となると、今いる軍師は『外様』。
だが、外様の軍師など袁瑞将軍が抱え込みたがる訳がない。
ここからは推論だが、となると『皇族』であるということが予想される。
「皇族の軍師ってか?」
「ええ、その通り。ただ、男かは少し疑問が残ります」
「……まぁ、遊牧民もその辺はゴタゴタすることがあるから、分からなくはないな」
ありがとうございます、と理解ある返事に僕は頭を下げる。
実際、男性皇族が継承問題で……ということもあるにはあるのだろう。
とはいえ、緊朝の官吏はアホだが保身にかけては天才的だ。
いくら連中がどうしようもないとはいえ、流石に袁瑞将軍という権力者に翼をつけようとはしないだろう。
にも拘らず、僕の推論は皇族の存在を強く示唆する。
恐らくは、太祖よりも開祖の系譜。
これは矛盾だが、間違いなくいるはずだ。
本来であれば、ここで矛盾に押しつぶされるのだが……僕は軍師的止揚により真実と思しき可能性を見つけている。
単純な話だった。
僕……緊朝の名門石家のこの貴公子たる自分! この僕が知らない男性皇族が居るかという疑問。
僕が知らないレベルだと、そいつの正統性は限りなく怪しい。
となると、いや、と迷走しかけたところで僕はふと思い出すのだ。
確か、『姫』に一人いたな、と。
面識ははない。
なにしろ、事実であれば『同世代の軍師候補』だ。
会った瞬間、殺し合うことだろう。
マトモな皇帝陛下……つまりは太祖陛下が全力で阻止したのであろうことは察しが付く。だから噂に聞いただけだが、姫が一人『軍師妖怪爺共』を太傅としたという風聞があった。
……宮中雀の愉快な噂に過ぎない。
けれども、僕の軍師魂が囁くのだ。
あの姫を、あの軍師を、喰らわないと安眠できないぞ、と。
事実かは確かめればいい。
「取りあえず、『彼女』と仮定しているんですが……相手の出方を見つつ、戦争の準備ですね」
「だな、親父殿にも相談しておかないとな」
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