第37話 彼女の愛した平和
カーン、カーン、カーンと乱打される鐘の音。
急を告げる鐘が鳴り響く。夜分、寝床に入り込んでいた袁家の兵士らはその音だけではね起きていた。
使用人ならば、怯えよう。
官吏ならば、状況に戸惑うだろう。
だが、彼らは違った。
輔国大将軍府居宅と改称された袁瑞将軍館は『袁家』の部曲が守護を担っている。常在戦場の兵士らが、累代の忠誠をささげる当主館を襲われ……おめおめと逃げ出すなどありえぬ話。
「賊だ! 賊の襲撃だ!」
襲撃者を見定めるや、宿直の兵が警報を絶叫。同時に4人組だった彼らは、二人が急を知らせるべく走り、残り二人が襲撃者へと直行。
黙らせようと襲い来る襲撃者を相手に僅かな時間を二人の衛士が稼ぐ合間に、警報を耳にした増援の宿直兵が、更には卒ごとに飛び起きた兵士らが続く。
「袁家を舐めた真似を! ぶっ殺せ!」
憤激する兵士らを前に、襲撃者は『話が違う!』などの悲鳴を上げるも、元より賊にかける情けなど兵士が持ち合わせる道理もなし。
一部を消火、防火に回しつつ、袁家の宿直と増援の将兵は一瞬のうちに事態を掌握。火付けを試みた強盗と思しき賊の実に半数をその場で切り伏せ、残るも大半を捕縛。
跳ね起きた袁瑞将軍が鎮定を確認する頃には、ちょっとした騒がしい夜はあっさりと終わりを告げる。
もっとも、袁瑞将軍にしてみればこれで終わりという確証など持ちようもない。
むしろ、逆だ。『これは序の口だろう』と警戒を密にし、四方を探らせ、更には政変をも予期して情報収集を密にする羽目になっていた。
不可解なことに、というべきか。これで、本当におしまいだと分かったのは数日後。北部は全く静謐なり。そこから、更に京師からの急死も急報の気配もなしとなれば首を傾げつつ賊を吊るして終わらせられる。
何だったのだ、という気味の悪さだけが残る中……袁瑞将軍は約束通りに『彼女』の元を訪れる日を迎えていた。
てっきり、襲撃騒動で不機嫌かと見ていた袁瑞は尾曽ろ過される。豈図らんや、彼女の機嫌がこの上なく……というよりも、かつてなく高揚とは!
鼻歌を零し、手元の胡弓を奏でる始末。
思わず聞き惚れるほどの腕前ながらも、奏でられているのが恋唄であるというのが不気味といえば不気味なのだが。
「ご機嫌麗しいようだな」
「あら、叔父上。……そのように、見えますか?」
「作り物ならざる顔だ。満腔の幸せと言わんばかりで、我が世の春が訪れたと歌い上げかねないほどだろうに」
まぁ、と口元を手で隠しつつ目を丸くするや『彼女』は頭を振る。袁瑞将軍としては、まるで『乙女』のような彼女の反応に却って怖い。
「ご、ごめんなさい、叔父上。叔父上ときたら、てっきり乙女心も知らぬ唐変木かと思っておりました」
「……私も乙女ではないがな。見れば、判ることもある。何か、良いことでも?」
「ええ、恋文を頂戴いたしました」
頬を染め、顔が花開くように輝く一言。
何も知らなければ、可愛らしいことだろう。
初春のような、初々しい悦びの声。
だけれども、袁瑞は知っている。知ってしまっているのだ。眩暈と共に腹の奥底でこみ上げてくる違和感。
ずきん、と。
慣れ親しんでしまった、胃の悲鳴。
袁瑞将軍の痛めつけられ続けた胃が再び悲鳴を叫ぶ。
恋文。聞きたくない一言。
『軍師』の恋愛事情など、知りたくもない。関わり合いになるなど、前世においていかなる因業があればだろうか?
否、そのような忌避の感情以上に不味いのは……『文』という事実。
袁瑞は、きちんと、それこそ厳選した使用人らで『彼女』の周囲を固めておいた。文字通りに、徹底した軟禁。
彼女の手元に流れ込む詩集にしても、楽団にしても、全てを信の置ける忠僕らが確認済みだ。連絡など、取れるはずがない。
「……気の利かぬことを問うのだが、誰がそのようなものを届けたのか聞かせてもらいたいものだな」
「叔父上、人の恋路に立ちふさがるものは馬に蹴られますのよ?」
ふてくされる様に頬を膨らませるのは、外面だけは可愛らしかろう。けれども、その中身は河豚の毒も同然だ。
その日、上機嫌な彼女と半刻も言葉を交わす羽目になったのは、袁瑞にとって煉獄も同然であった。
他方、残された『彼女』にとって世界は輝いて見える。否、世界に意味が宿っていた。
恋は盲目という表現がある。
盲という言葉を、『彼女』は余り快く思っていなかった。
けれども、それは恋を知るまでのこと。
頭では、理屈では分かっている。
でも、ダメなのだ。
心が、悲鳴を叫んでいる。
愛おしいほどに、狂おしいほどに、そして止めようもないほどに、落ち着きようもなくて仕方がない。
オトモダチが自分のことを忘れてしまうのではないか。そんな不安を抱くだけで、胸がズキンズキンと痛くなる。
不安が病の根源だとすれば、なんとつらいことか。貴方のことが知りたい。貴方の声が聞きたい。ああ、オトモダチ。貴方の悲鳴は、どこですか?
オトモダチのしゃれこうべ、それは、恋の証拠。愛おしいそれを傍に置くまで幾夜をこうして寂しく過ごせばよいのだろう。
寂しさと不安に怯え、臆病な心が震えるのは心細い。でも、大丈夫だった。オトモダチは『恋文』をきちんと寄越してくれる。
恋は戦争。
ああ、貴方は、オトモダチは、私と遊んでくれる! これこそ、これこそが、待ち望んだ平和の果実!
なんて、なんて、甘美で楽しいのだろう。
「平和になるなり、猛烈な恋文。ふふふふ」
オトモダチは、素敵なオトモダチ。
「ああ、心弾みます。この平和を、一緒に楽しみましょうね、オトモダチ!」
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